先輩こんにちは

スズキ・メソード今昔 (機関誌154号より 2005.12.15発行)

今回登場するのは、ヴァイオリンの舘 ゆかり先生、チェロの林 峰男先生、ピアノの東 誠三先生です。
小さい頃の思い出話から将来を見据えた提言までスズキ・メソードの「今昔」を語っていただきました。

館 ゆかり先生(ヴァイオリン)

館 ゆかり先生

「いいものを」よりも「早く」を求める傾向が最近のお母さんたちにみられ残念です。向こうも似てきました。

3歳から才能教育でヴァイオリンを始める。12歳より鈴木鎮一先生に師事。数回の渡米後、ニューヨーク、シカゴなどでデビューリサイタルを開き、高く評価される(ストラディヴァリウスを使用)。19歳の時、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院へ入学。ベネデッティに師事。プルミエプリ、プルミエノメ(1位首席)で卒業。一方、室内楽はユ-ボ-に師事。パスカル・ドゥヴォワイヨン(ピアニスト)とデュオを組み、プルミエプリで卒業。大学院で研鑽を積み、オークレール、ギンゴールド、コーガンの各氏に師事。その後、ドゥヴォワイヨン、スティ-ブン・イッサ-リス(チェロ)とトリオを組んだり、フランス・フィルハーモニック管弦楽団のソリストたちとサルトリ六重奏団を結成したり、ヨーロッパで演奏活動を続けている。シラク大統領の要請により、パリ市立音楽院でスズキ・メソードのクラスを受け持つ傍ら、フランス、イタリア、日本でマスタークラスなど、後進の指導にあたっている。


林 峰男先生(チェロ)

林 峰男先生

音楽の良さは人間の情緒を育てること。
これが長い目で世界を救うのだ。

幼少よりチェロを才能教育で学ぶ。桐朋学園にて斎藤秀雄に師事。その後、ジュネーブ音楽院を第1位で卒業。翌年スイス・ローザンヌ室内管弦楽団のソリストとしてヨーロッパにおいてデビューを飾った。1975年、ベオグラード国際チェロ・コンクール第1位に輝く。76年にはワシントンD.C.とニューヨークのカーネギーホールでリサイタルを開き、アメリカ・デビューを果たした。翌年にはスペインで開催された『カザルス生誕百年記念コンサート』に招待され、日本を代表するチェロ奏者として高く認知された。以来、名門スイス・ロマンド管弦楽団と共演するなど世界各国で演奏会を開いている。日本でも、各地で積極的な演奏活動を行なっている。95年には、カザルスホールにおいて『デビュー20周年4 日連続演奏会』を開催。今後ますますの活躍が期待される日本の代表的なチェロ奏者の一人である。現在、国際スズキ・メソード音楽院教授を務めるなど、後進の指導にも力を注いでいる。


東 誠三先生(ピアノ)

東 誠三先生

集中力と観察力、そしてほめるときの絶妙なタイミング。
これが鈴木先生は素晴らしかった。

幼少より、スズキ・メソードの片岡ハルコの下でピアノの基礎教育を受けた後、東京音楽大学付属高校から東京音楽大学へ。83年日本音楽コンクール優勝後、フランス政府給費留学生としてパリ国立高等音楽院に留学し、J.ルヴィエ、J.C.ペヌティエらに師事。ポッツォーリ国際コンクール第1位、ヴィオッティ・ヴァルセジア国際コンクール第1位など輝かしい実績を持つ。室内楽にも強い意欲を示し、東京フィルのコンサート・マスター三浦章広(Vn)、N響首席チェリストの藤森亮一(Vc)と結成した「ボアヴェール・トリオ」での活動をはじめ、多くのトップ・ソリストたちと共演。現在は、東京藝術大学、東京音楽大学、国際スズキ・メソード音楽院、山梨学院大学ミュージックアカデミー、各地のマスタークラスなどで後進の指導にも当たっている。


先生方に聞いてみました


この写真は1964年3月の第1回海外演奏旅行の時のものですね。3月5日から22日間の日程で、14都市、20回以上の公演というものでした。この時私は14歳。子どもたち10人が学校を長い間欠席しての旅行ということで、文部省からクレームが来たと聞いております。才能教育研究会常任理事で医師の本多正明先生も同行されました。


当時、ニューヨークの日本総領事舘に勤めていらした望月謙児さんが500人の子どもたちの演奏フィルム(第1回全国大会~1955年)をアメリカに紹介したのがきっかけで、フィラデルフィアの全米弦楽指導者協会に招かれて、鈴木先生が子どもたちを連れて渡米されたのです。国連やリンカーンセンター、カーネギーホールなどでの演奏は素晴らしい経験でしたね。ジュリアード音楽学校でもガラミアン先生に聴いていただきました。大家族旅行といった感じで本当に楽しかったです。


チェロはというと、初めの頃の海外公演にはありませんでした。チェロはヴァイオリンより遅れて始まっていますから。それにその頃、僕はもう高校生だったので、スズキを離れていました。1954年に8歳で入会して、それから10年。その時はもう18歳ですからね。


最初はピアノもなくて、ヴァイオリンだけでしたよ。しばらくしてからですね、チェロやピアノが参加するのは。


私が参加したのは1970年の第6回海外演奏旅行でした。10チルドレンで9月末から11月初めまでで、1ヵ月と少しかけて、イギリス、ベルリン、ポルトガル、アメリカなど20カ所以上、1晩か2晩の宿泊で移動して演奏しました。こういう経験は、もちろんこの年齢ではありえないし、大人になった今でもないですね。私たちはワーワー言って付いて歩いていればいいだけで「ちょっと日本食が食べたいな」と思うくらいでしたが、引率の先生方のご苦労は並大抵ではなかったと思います。今、先生方と同じくらいの年になって、その大変さがよくわかります。先生方は本当によくしてくださいましたし、ハードな旅行でしたが、ひたすら楽しく過ごしました。

司会
東先生の頃にはヴァイオリン、チェロ、ピアノと揃っていますね。


ええ、一緒に作ったピアノトリオのヴァイオリンの三浦章広君やチェロの野村朋享君とは意気投合して、本当に楽しかったですね。10チルドレンに選ばれると、9月くらいから毎週松本に集まって練習するんですが、練習が終わると毎回お茶会があって、それが楽しかったんです。もちろん、練習もちゃんとするんですけれど。みんなとすぐ友だちになって、公演に出発する時にはもう仲良しでしたし、行けばずっと一緒にいるわけですしね。このトリオでは、1回目の70年の時は「ロンドンデリーの歌」を、確かアンコールとしてやったと思います。2回目に参加した72年には、モーツァルトのハ長調のピアノトリオを本公演で演奏しました。今も、ボアヴェールトリオとして東フィルのコンサートマスターとなった三浦君やN響首席の藤森君とトリオを組むなど、積極的にソロ以外の活動もしていますが、この経験があったので室内楽に興味を持つようになりましたね。この体験が「アンサンブルは楽しいぞ」ということに結びついています。ほかの楽器と合わせる新鮮さ、楽しさを知った、これがまさに原点です。


1961年チェロの佐藤良雄先生が、カザルスを日本に招くことに尽力したんですよ。それで、公開レッスンしていただくことになったんです。そういっても、僕たちは子どもでしたし、東京のどこか立派なお宅で、小さい子たちが一人ずつ弾いてお言葉を頂戴してという感じでしたね。61年ですから、僕は15歳くらいですね。何を弾いたか、何と言われたか残念ながら、まったく覚えていませんが。


カザルスが鈴木先生にお逢いになったのもその時ですね。文京公会堂での子どもたちの演奏にカザルスが感動されて、涙されながら鈴木先生に「私は、世界のどこにおいても、このような愛情と誠実の心に遭遇したことはない。音楽が世界を救うだろう」とおっしゃったのですね。たしか貴重な写真がありましたね。鈴木先生が本当に伝えたいと思っていらっしゃるスズキ哲学の本質を理解してくださったのですね。先生も、とてもお喜びでした。

思い出たっぷりの夏期学校

司会
海外公演と並んで、夏期学校はスズキ・メソードの大きなイベントだったと思いますが、皆様の頃にはどんな感じだったのでしょうか?


私たちの頃は、田んぼの真ん中の、本郷小学校の体育舘で、その中にお店もあり、コンサートもありといった感じで、小さな小さな会でしたね。木陰で峰男ちゃんのお父様がコーヒーを作ってくださって、アイスコーヒーとか。そのあたりから覚えていますね。楽しかったですよ。ほとんど皆、知リ合いという感じでした。小さな体育舘で十分だったのですから。


今と違って、それぞれの先生はそんなに生徒を持っていなかったでしょう。会員が、ほとんど松本に来ていたんじゃないかな。


私の頃には松本市民会舘でやっていて、そこと才能教育会舘を行ったり来たりでした。とにかく人が多くてにぎやかなのを覚えています。ほかに覚えているのはアイスクリームやコーヒーの売店が出たことくらいです。もしかしたら林先生のお父さんのいれるコーヒーだったかもしれません。今、お話をうかがっていてそう思いました。何も覚えていないのですが、いいコーヒーの香りがしていたことだけはよく覚えているんです。あとは、コンサートが午後と夜にあって、会場の雰囲気が小さな子が多いせいかうるさいのですが、拍手がイキイキしていました。


私たちの時代も面白かったですね。腕白坊主たちが浅間の温泉で屋根伝いに遊びに来たりして。浅間温泉も、とても楽しかった。


そうそう。旅行なんかあまり行かない時代に、お風呂っていったら家の小さいお風呂だったのが、夏期学校は広いお風呂場に入れるので、裸で走り回って楽しかったですよ。大きくなってスズキ・メソードを離れてからも、夏期学校だけは来て弾いていました。


浅間温泉から、ちんちん電車の線路のところを、ヴァイオリン背負って皆でぞろぞろくだって来るんです。トンボ取ったり、カエル取ったり、大変でした。周りが田んぼだけあってピアニシモになるとカエルの声の方が大きかったり。あそこには、いっぱい思い出があります。

先生方の思い出

司会
鈴木鎮一先生の思い出話も含め、先生方のお話を伺わせてください。東先生は最初から片岡先生に習われたのですか?


5歳の時に、東京から父の転勤で松本に越してきて始めましたが、最初から片岡ハルコ先生でした。母がいろいろな教室を見学させていただいて、この先生につこうと決めたそうです。そのくらい指導法が印象深かったんだと思います。片岡先生は、一言で言うなら、子どもが今何を感じているか、どういう気持ちでいるかということを汲み取る、察することに非常にたけていた方でした。この子がどういうことを考えていて、今私がいったことにどう反応して、どう思っているかということをよく分かられた方ですね。先生には、きっといろいろなスキルとしてあって、観察のポイントがあるのだろうと思います。非常に厳しかったですが、言われている方は納得がいきました。的確に厳しくおっしゃってくださるし、納得がいくので、「大変だけど何とかやってやろう」という気持ちになるんです。これは、特に小さな子どもたちに教えるには、音楽だけでなく、指導者にもっとも大切なスキルだと思います。相手の精神状態がわかり、それに対してどういう刺激を与えて、どうやって彼らのモチベーションを引き出してくるかという。「先生の言うようにやったらできるようになるぞ」、と思えることを毎回レッスンのたびに教えてくれました。言うだけでなく、母のためにも連絡帳にも同じように書いてくださいました。


私は、3歳の時、東京で川村たか子先生、父の転勤で新潟に行って田沢毅先生、その後名古屋で西崎信二先生でした。東京に移ってからは鈴木鎮一先生に師事しました。一人で汽車に乗って松本に通って、先生のお宅に泊めていただいておりました。夜ふかしして、明け方の4時頃に寝ようかな、と思う頃に先生が起きていらして「まだ寝ないのかね」とおっしゃったり。その後、鈴木先生はお仕事、私たちはぐっすり寝て。ところが朝食が6時で、ほんのちょっとしか眠れない。つらかったですよ(笑)。鈴木先生は、いつでもきちんとした装いをしていらっしゃいました。いつもピッと背筋が通って、でもそれが楽そうに見えるほど自然でした。先生の手からほとんど離れないキセル(パイプ)が懐かしいですね。15~16歳の頃かな、先生にすごく反抗しましてね。「肩あてをしなさい」とおっしゃるとわざわざ取ってみたり、「その音、もう少し長い方が良くないかね」とおっしゃると「これは、フェルマータがついていません」とか応えていました。いわゆる反抗期ですね。でも、そんな時でも「そうかね」と笑って見ていてくださいました。人間の成長の一つのステップとして反抗期も受けとめてくださったんだなと、今、つくづく先生の大きさに頭が下がります。


鈴木先生も子どもが何を考えているか見抜く達人でしたね。どの子に対しても、的確に状況を見抜いて、その子の気持ちを、知らない間にこちらに気を向けさせるようにリードしてくれました。そしてできたその時に間髪いれず、子どもらしい「のり」でほめてくださいました。でも鈴木先生も片岡先生も、ただおだてたり、ほめそやすということではまったくありません。「だめ」なことは「だめ」とはっきりおっしゃいました。こうやればうまくいく、でも忍耐が要るともきちんとおっしゃいました。ほめるタイミングがいいんです。人は誰でもほめられたいですが、できればほめてほしい瞬間にほめてほしい。これだけやり遂げたという達成感のある時に外から言ってもらうことで、やり遂げたということが確かな自信になるんですね。そういうタイミングが素晴らしかった。今考えてみても、それが私が体験したスズキ・メソードの大きな特徴かもしれないと思っています。これを指導の場でやろうとしたら、大変な観察力、集中力、高い感性という、非常に高いスキルが必要なんです。教える立場の人は、そのスキルを磨き続けないといけないですね。まずはこちらを出さずに観察することからですね。


鈴木先生は小さな子にも、一人の人間として対してくださったように思います。


僕はチェロですから、鈴木先生には夏期学校でお逢いするくらいで、あまり接点がなかったな。だから記憶はかえってスズキを出てからの方があります。一度冬に演奏会を手伝いに来たことがありまして、その後、白馬に行ってスキーをする予定だったので、車で松本まで来たんです。そしたら途中で事故を起こしましてね。松本に着いて、先生にお話したんですよ。そうしたら「お見舞い」をくださったんです。それはよく覚えてます。かなりの額だったと思います。信州大学のオーケストラに、ソリストを頼まれて松本に来た時にも、昼間暇なので会舘に来ていた2人の研究生にレッスンしてたんです。暇つぶしで、もちろん無料で。鈴木先生にご挨拶したら、レッスン代として10万円くださったんです。破格ですよ。20年くらい前の話ですし、お金いただくこと自体にびっくりしました。もちろんお返しなんてできませんからいただきましたけれど、驚きました。


とにかく何でもあげちゃう先生でした。人間国宝のような方が描いた絵でも、上手に弾けると「ご褒美」とか言ってあげてしまう(笑)。ドイツのおばちゃま、私たちは奥様のことをそうお呼びしていたのですが、「ここの絵どうしたかしら」と聞くと「あげちゃった」って。これはいくらだからなどという計算はまったくない。お菓子もいっぱいあって「ご褒美」ってくださるんですけれど、年頃になると食べないで隠すのが大変でした(笑)。

教える立場になって

司会
東先生の夏期学校でのレッスンはとても人気がありますが、教える上でどんなことを心がけていらっしゃいますか?


やはり子どもの心の動きを上手に刺激してあげることですね。それがその子にとって音楽体験というのが豊かになっていく道じゃないかと思っています。指導していく上では、常に新鮮な気持ちを失わないようにしていかないといけないですね。今、何がこの子に問題なのか、どこからからんだ糸を解くか。教えるというのは、からんだ糸を切ってつなぐのではなく、とにかく時間がかかっても、ほどくことが大事だと思っています。学ぶ方も同じで、たとえば離れたところへ行くのに、電車やヘリコプターではなく、必ず歩いていかないとだめです。途中どんな景色だったか、どんなことがあったか、一つひとつ経験することに意義があります。「落ち着いて何度も繰り返し練習する」しか到達する方法はないんです。そこに成果がかかってくるんです。繰り返しはできても、それを「落ち着いて繰り返す」のは難しい。これができるようになるとその人の人生にかなりプラスになると思います。いらいらせずできる、ある意味、精神力です。特にピアノという楽器はそれが必要とされています。


そうそう、必ず弾けないところが出てきますね。それを諦めず、少しずつきちっとクリアしていくという、それが大人になっていく上で、経験として残っていくんです。言い換えれば、何があっても生きていけるという教育でもあると思います。鈴木先生がよくそうおっしゃっていました。一番大切なのは、人間教育だからと。アマチュアで素晴らしくなるのは、どんなに素晴らしくなってもかまいませんと、よくアインシュタインの話をされましたね。


子どもたちにはいろいろなことをやらせたいですね。スポーツもあるし、武道もあるし。その中で、音楽のよさって、世界を救う、じゃないけれど、人間の情緒を育てます。それを育てれば大人になった時、判断力も付くし、長い目で見れば、この判断が世界を救っていくだろうと思います。そういう意味からも、私は小さい時に、音楽を続けてやらせるのはいいことだと。スズキ・メソードを毎日、毎日の生活習慣にして、調子の悪い時は食事の量を減らすように、練習も調節していけばいい。生活のリズム、体のリズムでやっていけばいいですよね。


私から見ていますと、お母様たちは、厳しいし、どうもせっかちですね。最近はヨーロッパの親もせっかちになってきましたが(笑)。今の時間の観念は昔と違うように思います。「いいものを」というより、「早く」になりがちです。一方、子どもたちは夏期学校で走り回って、「また行きたいなぁ」、「合わせたら楽しいし」といって練習を始めます。これは変わりありません。


私が片岡先生の言葉で心に残っているのは「必ずできる」なんです。たとえば、練習中、難しいパッセージを10回落ち着いて弾かせる。そうすると11回目に少しできるようになったのがわかります。繰り返しやったら少しでもできるようになるとわかると、家でもやる気になります。ほかのところもそうやってみようか、という気になりますから。そして最終的には「一人でできる」という自習能力が身につきます。そこに持っていかないと、教育に時間とお金をかける意味が薄くなってしまうような気がするのです。

スズキ「らしさ」を大切に

司会
これからのスズキ・メソードのことについて話題を移しましょう。


現在は月1回、国際スズキ・メソード音楽院で教えていますが、今年はこれまでで一番多くて8人みています。今のポジションになって4~5年経ちましたので、やっと状況把握ができてきました。これからの時代、いろいろある中でスズキ・メソードらしさを出していくのは難しいですね。昔より選択肢が広く、どのお稽古ごともシステム化された中から選択するわけですから。スズキ・メソードの将来のためにも、いろいろな観点から新しい実験が必要に思います。核が何なのか、指導者が共通した認識を持っているかどうか、問われる時代です。言葉だけで捉えるのでは弱い。感動した体験が原動力になっていかないと。


そうですね。改革は時間がかかります。スズキ・メソードの子どもたちは、全員がプロになるわけじゃない。でも、プロになってもいいような教育はしています。スキルアップを目的にしていなくても、十分スキルアップを与えられる環境が構築されていて、大切なのはいつまでも音楽を愛していかれる、心の醸成の場です。そのためには、指導者はちゃんとした基礎を教えるということです。ご家庭では、毎日のレッスンを習慣化することになります。


それにスズキ・メソードは、ほかの楽器との接点があるので、小さいうちからアンサンブルをしていくことをあたリ前にしていきたいですね。実は少しずつですが始めていて、各地区のいろいろな楽器の先生が集まって、生徒たちの小さなコンサートをしています。ある程度のところまで進むと、必ず同じ年くらいの子どもたちとトリオやデュオをできるというようになるといいと思うのです。人と合わせるのは面白いですし、自分と違う感じ方の人がいるのがわかる、体験できる、実感できるのはとても大切なことですから。


楽器の音、美しい音を求めることが子どもたちの心を育て、それが情操教育、人間教育につながっていく、ということを深く心にとめて続けていっていただきたいと思います。素晴らしい感性を持った人間に育てて、世界を救うというテーマが、スズキ・メソードの本質だと思います。そこが、スズキ・メソードと音楽学校との大きな違いではないかと思います。鈴木先生は、「大切なのは、その子が、その子の能力に対してどれだけ努力をしたか、だから、隣の子と比べるのではなく、もし比べるのであれば大音楽家と比べなさい」とおっしゃいました。「オイストラフ先生よりうまくなったかね」とか(笑)。


そうはいうものの、競争は必然的にあるだろうと僕は思います。子どもの頃「ナントカちゃんはこんなに弾けるのに」って言われましたから。競争意識って、人間誰にでもあるものですし。逆にスズキ・メソードだからって抹殺してはいけないし、バランスを取りながらうまく育てればいいのではないかと思います。


昨日、音楽院生のみなさんと食事をした帰りに、私が車から降りるとみんな降りて、門に私が入るまで見送ってくれました。雨が降っていたのにもかかわらず。そんな若者たち、今どこにいます?いないですよ。次に来る人のためにドアを持つとか、お年寄りに席を譲るとか、ほとんどいないですね。だから、まだこういう世界が残っているのだと、びっくりしました。鈴木先生は、私が小さい時、自分が玄関に上がったら、「自分の靴じゃなくて、お客様の靴を直しなさい。おかしかったら、おかしいというのではなくて、自分で直しなさい」というような教育をされましたから、ここの生徒たちの動きを見て、うれしかったですね。まだ生きているって。そういう教育をされた子たちが、先生になって親にそれを伝え、その親が子に伝えと、大きなエネルギーになって次の時代を担う人々を作って行くのですね。ここに帰ってくると素敵なものが残っています。子どもたちがいい顔して、幸せそうに弾いているのを見ると、よかったなぁと。そういう時って、先生たちもいい顔してますね。鈴木先生と同じ笑顔をしている先生がいっぱい、これが続いていったら、本当に素晴らしいですね。

司会
本日は貴重なお話の数々をいただき、ありがとうございました。

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