関東地区の新年指導者研究会を、昨年に続き、対面で開催
今年は、早野龍五理事長、東誠三会長の2極体制になって初めての新年指導者研究会となりました。まずは、早野理事長からの年頭挨拶、そして東会長による「スズキ・メソードと私」と題した講演、さらにはチェロ科指導者たちによるチェロ科全国大会のPRを兼ねたチェロアンサンブル演奏、そして、早稲田大学大学院法務研究科教授で、才能教育研究会理事でもある上野達弘理事による講演と、盛りだくさんなプログラムが用意されました。
早野龍五理事長の年頭挨拶
1946−80=いくつでしょう。
逆に1946+80=これは簡単です。2026になります。
本会の80周年となる来年、2026年に久しぶりにグランドコンサートを開催します。まだ会場の「TOYOTA ARENA TOKYO トヨタアリーナ東京」は、工事中で下見もできません。
最初の引き算の答えは、1866です。1866年と言えば、徳川慶喜が江戸幕府の第15代将軍に就任した年。徳川時代だったのです。その後の80年間に明治維新があり、日清・日露戦争があり、世界大戦があって終戦となります。80年というのは、そのくらい長い年月です。幸いにも、日本は1946年以降、戦争はなく、比較的平穏に暮らしてきましたが、その前の80年は大きく変化していたのです。
そういう中で、本会がこれからも活動を続けるには、さまざまな点できちんとした対応が必要になります。そのために、昨年8月に会長と理事長に仕事を分けましたが、これは本当に良かった試みだと思います。東会長は私より10年若いですし、本日ご出席の上野達弘先生のような方を理事に迎えられたことも、本当に良かったと思います。ということで、今年もどうぞよろしくお願いします」
東 誠三会長による講演「スズキ・メソードと私」
「みなさま、明けましておめでとうございます。この場でお話ができることは、本当にありがたいことです。今日は、60年近くの関係になりますスズキ・メソードと私のことをお話します。
1967年でした。父が転勤の多い仕事で、引越しの2週間前に辞令が出て、松本に引っ越すことになりました。母にとっては長野県の松本って何処?という状態。私は5歳の幼稚園児でした。その後、母はいろいろと調べて、松本にはヴァイオリンの教育で名高い鈴木鎮一先生がいらっしゃることを知ったようです。家にはアップライトのピアノがあり、よく遊んでいました。それを見て「この子は音楽がいいかもしれない」と思い、松本音楽院に私を見学に連れて行きました。森ゆうこ先生にヴァイオリンを習うことになり、その帰り際、廊下の奥の部屋からピアノの音が聴こえ、片岡ハルコ先生のクラスも見学したのです。母親によれば、その見学で「その先生に習うしかない」と思ったそうで、しばらくはヴァイオリンとピアノを併行して学んでいました。ヴァイオリンは私にとって難しかったようで、次第にピアノ中心になりました。
小学4年の冬まで松本音楽院に通いましたが、その後転勤で東京へ。いろいろと先生を探したのですが、やはり片岡先生に習おうと、東京から松本へ2週間に1度通いました。1日に6往復くらいしかなかった『あずさ』に乗れることは、鉄道ファンの私にはとても嬉しかったことの一つです。中学3年までそうした生活でした。ピアノの練習は大変でしたが、音楽はいろいろな世界を見せてくれるものだし、その道に進むのもいいかなと思いました。それで、高校受験の前からついたのは、井口愛子先生でした。
そのきっかけは、まだ松本に住んでいる時に、松本にコンサートでこられた野島稔先生(井口愛子先生のお弟子さん)に、片岡先生がご挨拶に行かれて、「こんな子がいるので見てほしい」と交渉してくださいました。これはとても勇気のいることで、今の私には到底できません(笑)。その後野島先生のお宅にレッスンにお伺いした時に、隣で弾かれる先生の音に大変な衝撃を受けました。ピアノからこんなにも美しく気品のある音が出るのかと。この時の体験が、私が音楽の道に進む大きなきっかけになったと思います。
また、野島先生が弾かれる姿、腕から指にかけての動きは本当に美しいものでした。至近距離でそのような動きを見たことがありませんでした。この動きと音は、一体どうしたら実現できるのか、その思いは現在まで続く探求の源泉になっており、その疑問は未だに氷解していません。
高校は、井口愛子先生のおられる東京音楽大学附属高校へ進学しました。最低でも1日4時間は練習。7時間、8時間練習しないとこなせない課題が常にありました。
東京音楽大学3年の時に日本音楽コンクールで第1位を頂きました。これは野島先生のご指導のおかげです。その後、パリ国立高等音楽学院に留学し、師のジャック・ルヴィエ先生は当時37歳。どの年代でも私は素晴らしい指導者に恵まれました。それぞれの先生はまったくタイプが違いますが、共通しているのは、この生徒にはこうしたらいいという明確な洞察をお持ちで、それぞれのスタイルで可能な限り熱心に教えてくださった事だと思います。どの先生も「天職」として、ピアノを、そして音楽を教えておられました。私は本当に恵まれていたと思います。
その後、国際スズキ・メソード音楽院で、1998年頃から2017年に閉校になるまで、指導者になる皆さんを教える仕事をしてきました。また大学でも教えています。それと同時に演奏活動も行なってきました。いろいろな楽器奏者たちとのアンサンブルを多数経験してきました。中でも、テン・チルドレンツアーでピアノトリオを組んだ体験が、音楽を続けてきた原動力になっています。アンサンブルがこんなに楽しいものかと思いました。みんなで音を出して、一緒に音楽を作ることを、8歳、10歳で体験できたことは大きかったと思います。片岡先生からの教えももちろん大きいものでした。そして、計り知れない大きな影響を受けたのが名演奏家の音をたくさん聴いたことです。
生徒さんに教える場面では、一緒に音楽を作っていくわけですが、一人ひとりが違う中で、生徒さんの性格を考え、心の中を推し量り、どんな音楽を思い描いているかを探ろうとします。でも一筋縄では行きません。その時のレッスンという、二度とない「時間」にどう対処していくか、どういう方法で指導の方向を示すことができるか、それは簡単ではありませんし、いつまで経っても答えが出ません。
音楽には、「感動」という情動を起こす力があります。この科学的に解明され尽くしたとは言いがたい精神現象を、さまざまな形で体験できる(ある時は高揚であり、ある時は深い悲しみであり、ある時は、それらを超えた「名状しがたい何か」としか言いようのない感覚です)のが音楽です。「感動」は人間を浄化します。浄化された人間の心は素直に謙虚になれます。謙虚になれれば、他者へのリスペクトが自然に生まれます。究極的には、この精神をより幅広く実現・実践できる人間を目指して、成長していくことが最も大切なのではないかと思えます。
ここからは、予めお受けしたご質問への答えです。
よく質問を受けるのですが、片岡ハルコ先生のことを話し出したら、それこそキリがないのですが、テン・チルドレンのツアーから数年後、アメリカのサマースクールにご指導に行かれていた時に、ご一緒だったことが何度かありました。現地でのマスタークラスの見学から、「指導」の勘所を私なりに考える機会をいただいたと思います。具体的にこのような方法でやりなさい、とケースに応じて、具体的に懇切丁寧に教えておられました。松本でのレッスン時、私の母は楽器も弾かないし、ドレミも読めませんでしたが、お稽古を家でさせるのはしっかりやってくれたようです。片岡先生の具体的な指示をしっかりノートに書きとめていたようでした。片岡先生の全身全霊で生徒に対峙される姿や、演奏に対する姿勢に関して、様々な事を教えていただいたと思います。
今日は、新年のおめでたい席ですが、せっかく多くの皆様にお集まりいただきましたので、個人レッスンの中で起こりやすいハラスメントについて、少しお話しさせていただきます。ハラスメントの正式な概念や種類、その内容については詳しくは専門家の記述やお話を参考にしていただきたいのですが、私が見聞きした多くの事例から、その共通項のようなものをお話しいたします。まず、ハラスメントをしたと訴えられる先生は、多くの場合、大変ご熱心なご指導をなさり、これまでのご実績もそれに相応しい方でおられることが多いです。そして多くの方にリスペクトされています。意外に思われるかもしれませんが、ハラスメントは、受けた側(被害者という表現も可能ですが)がどう感じているかで、計られる側面が大きいです。先生が適切だと思っても、受け取る側は個人差があります。ある人にはちょうど良い指導が、他の人には厳しすぎるということはよく起こります。また、執拗な叱責や、人格を否定するような暴言とまでは行かなくても、少し厳しかったかな?と思うような発言も気をつけなければいけない場合もあります。また、たび重なるレッスン時間の変更や、生徒さんに対して、決められた時間のレッスンを行なわない、(時間の不足、逆に過剰に長時間の指導)なども、たび重なるとその原因になります。普段から、このようなことに常に気を配って実際のレッスン活動を行なうことが、今は当たり前のように求められています。私自身も含め、振り返ることを忘れないようにしたいものです。
最後に、東京大学との共同研究についても現在の状況について簡単にお話します。現在、第2弾の研究論文が査読中で、ここで認められれば、世界中にその結果を発表できるようになるでしょう。鈴木先生が7〜80年前に洞察されたことが、科学的にも間違っていないことが、少しずつですが証明されていくかもしれません。鈴木先生は、当時まだ誰も語ることのなかった、脳科学の世界を、鋭く深い洞察から予見なさっておられたのかもしれません。脳科学にご興味がある方は、ぜひこのサイトをご覧ください。
ご清聴誠にありがとうございました。
→脳科学の世界をのぞいてみる
チェロ科指導者たちによるチェロ科全国大会PRと
チェロアンサンブル演奏
短い休憩後、舞台には、チェロ科指導者がずらり勢揃い。チェロ科全国大会の実行委員長を務める藍川政隆先生から、このコンサートについてのPR、さらにはヴァイオリン科の生徒さんとの共演などについて説明があった後、チェロ科指導者によるチェロアンサンブルが披露されました。
曲目は、ゴルターマンの「レリジオーソ」。チェリストでもあったゴルターマンのこの作品は、チェロアンサンブルの定番曲。敬虔な祈りの曲です。今回のチェロ全国大会でも披露されるとあって、格好のプレゼンテーションとなりました。演奏メンバーには、このあと講演をされる上野達弘理事も参加され、大変話題になりました。
上野達弘理事による講演「スズキの魂百まで」
まず、生い立ちです。東京に生まれ、神戸に転居。野村武二先生のもとでチェロを学び始めます。野村先生は、かっこよかったですね。1955年の全国大会の時に、チェロ科として初めて出演され、翌年、松本深志高校でご一緒だったヴァイオリン科の新井覚先生のご自宅でチェロ教室を始め、当初は生徒さん3人で京都支部を始められたそうです。その後、神戸支部を作られ、私は梅田支部で始めることになります。1977年のことで、5歳でした。
最初は藤田史子先生のところにヴァイオリンで申し込みましたが、すでに一杯でした。5歳ということもあり、ちょうどできたばかりの梅田支部でチェロを習い始めたのです。この写真は、始めて2ヵ月の時の発表会の写真ですが、矢印が私です。椅子が足りなくて、舞台袖にあったみかん箱に座って弾きました(笑)。武二先生は、非常に穏やかで、無音の状態が多い先生でした。演奏が終わると、パイプを吸われますが、じーっとされている。それから「あのね…」という感じでお話を始める方でした。
アンドレ・ナヴァラの来日された1980年の写真では、武二先生がナヴァラのチェロを持っています。「信頼されていたからだよ」とおっしゃっていました。ナヴァラはとにかくボウイングの美しい方でした。
武二先生は49歳で亡くなられましたが、松本深志高校の同窓会の文集には素敵な文章を書かれていました。武二先生の追悼勉強コンサート(1981.12.20)では、初めの挨拶をしています。その翌年から、息子さんの朋亨(ともゆき)先生が50人くらいいた教室を継がれました。この研究科卒業演奏会での写真(10歳)は今より形がいいのではないかと思っています(笑)。
ヴァイオリンのクラスの発表会に呼ばれて、チェロを演奏するのは楽しかったですね。いろいろなところに呼ばれました。シャイでしたから、女の子たちの多い合奏団に行くのは楽しかったんです(笑)。17歳の時に、東ドイツ(DDR)への演奏旅行に参加したのが初の海外旅行です。この時に、東京や名古屋の友人たちがたくさんできました。高校生当時は、音大に行って、演奏家になりたいと思っていました。好きなものが音楽ですから、好きなことを仕事にすればいいわけですが、「2番目に好きなものを仕事にするといい」というアドバイスをいただきました。仕事というのは大変だから、難しい時に行き場がないと困るだろうというわけです。両親にも音大行きは反対され、京大に行きました。大学に行っても、音大に出入りし、大阪音大の作曲家の皆さんの新作発表会などにも参加したり、京都でのフランス音楽アカデミーにもオーディションを受けて参加したり。私以外は、桐朋や藝大の生徒ばかりでした。
大学では、2人の恩師に出会うことになります。1人はゼミの辻正美先生。4人しかいない小規模のゼミで、夏休みにみんなで裁判所見学に行った帰りの鴨川沿いの喫茶店で、先生から「上野、今度大学院試験をやるから、受けへんか」と言われ、友人たちからも「そうせえ」と。「僕なんかとてもとても、2ヵ月くらいでは準備できません」と言ったら、「いやぁ、人間なんて集中できるのは、ほんまに2ヵ月くらいやで」とおっしゃったんです。「あれ、受けていいのかな。否定されなかったな」と。目標ができると俄然がんばるタイプですから受けてみたら、受かったんです。
翌年、大学院の最初の授業が終わった時に、辻先生から、「司法試験の勉強やめて、研究者になりぃ」と言われました。司法試験の勉強は全然していませんでした(笑)けど、研究者もいいなと思いました。でもこの辻先生は48歳で亡くなられてしまうんです。そこで、当時37歳くらいの山本敬三先生にお世話になりました。ご自身にも厳しい方でしたが、生徒にも厳しかったですね。私にとって、こうした「その気にさせてくれる」先生と、「厳しくしてくれる」先生の両方がいたことが重要でした。それで29歳で成城大学で2年間、その後9年間立教大学、そして今の早稲田大学が11年間になります。仕事の傍ら、楽器を続けていて、スズキの先生方とも室内楽をやり、呼ばれればなんでもやるという形です。
楽器をやっていて良かった点は、国際交流につながることが多いことです。私のように著作権法学をやっていますと、文化や音楽にも大いに関係します。この著作権法の世界では、海外でも楽器をやっている人が多くて、ディナーの時なども一緒にやろうということになります。ミュンヘンの研究所やニューヨーク、プラハの学会など。
この著作権法ですが、似ているかどうか、という問題があります。どこまで似ているかという問題です。答えがありません。法学部にも、憲法とか会社法とか刑法とかいろいろありますが、私どもの学問はこのイラストとあのイラストは似ているかどうかなど、柔らかいものを対象にしています。文化については大事なものです。クリエイターの権利は守る、死後70年間という長期にわたる権利です。法学部は覚えるんでしょ、と言われます。知識を覚えるために学ぶという学生もいますが、そうではなくて、答えを出すためにどう考えるか、ということをみんなで一緒に考える場です。
音楽の世界でもあります。作った人の権利も大事だし、他の人の自由も大事です。最近は、AIです。このチラシ、最近の私自身の演奏チラシも実はAIで作りました。これに著作権があるのかというのが世界中で議論になっています。一切の人間の関与のない音楽、というのもあります。今の著作権法ですと、人間が関与したものに発生する。機械が作ったものにはないという前提がありますが、難しいのは、AIを生成する際に人間がプロンプトを入力するなど、人間の関与があるのでは、という議論です。機械が作ったものなのか、機械を道具として人間が作ったものなのか、非常に曖昧です。12月にも国際シンポジウムをやりましたが、見解がバラバラでした。
ご存知のように、著作物には保護期間というのがあります。亡くなった日から70年間ではなく、亡くなった次の年の1月1日から70年間です。2018年までは死後50年でした。それに国によって違いますが、戦時加算という仕組みもあります。これらの著作権料の計算はとても複雑です。それに原曲の著作権が切れても、アレンジに対する著作権がある場合があります。ただ、著作権法第39条により、非営利で無料のコンサートでしたら許諾を得なくてもいいわけです。ただ、「投げ銭」という形は、どう解釈するかでいろいろと難しいです。
この1月からは、「初めての著作権法」という一般向けのセミナーを始めています。大学ではディベートゼミなどをやっています。こうやって振り返りますと、研究生活も楽器のある世界もどちらも楽しみです。二つのチャンネルがあることが大切だと実感しています。なお、今回のタイトル「スズキの魂百まで」は、2009年に銀座十字屋で開催されたSuzuki Weekというイベントで、宮田大さんの演奏と一緒に行なった私自身の講演につけたタイトルでした。ご清聴、ありがとうございました。