医療従事者たちのJオーケストラが、ニューヨーク・カーネギーホールで公演。
スズキ・メソードの関係者たちも多く出演
医師や歯科医などの医療従事者で構成された Jオーケストラが、7月18日(金)、ニューヨークのカーネギーホールでコンサートを開催しました。このコンサートは、本会顧問で聖路加国際大学名誉教授の宮坂勝之先生の甥御さんで、スズキ・メソードでヴァイオリンを学ばれた歯科医の宮坂厚弘さんが発起人として主宰され、数名のスズキ出身者が出演されました。
Photo by Masahiro Noguchi
まずは、宮坂勝之先生からのメッセージをご紹介します。
鈴木鎮一先生の理念に通じるところが多々ありました。
高いメッセージ性を持ったプログラム構成を支えた指揮者やソリストの存在、在留邦人の合唱団や日本の国連大使の参加など、とても良く考えられた企画だと思います。人々の分断や差別の鮮鋭化が問題のこの世相の中で、アメリカで "Music is a universal language - one that inspires, connects, and uplifts the human spirit.”を掲げたことの勇気は、鈴木鎮一先生の理念である、「善良な市民の醸成」にも合致するもので、それが共感をよんだことは、とても喜ばしいことです。
その宮坂厚弘を中心に、私の息子たちや、彼が把握しているスズキ関係の参加者や応援団のメッセージや活動風景の写真などを適宜組み合わせれば、素晴らしい報告ができ、今スズキで子どものお稽古に苦心されているご両親たちに、明るい未来を示されることと思います。私の個人的な思いですが、スズキの裾野を拡げるためにも、いつか新装アリーナでの全国大会などで、JオーケストラとOB・OG会などの共同出演といった企画につながれば良いと思っています。
参加された方々からメッセージが届きました。
音楽の殿堂であるカーネギーホールで演奏できるというのは音楽を嗜む者にとってこの上ない喜びでした。
私はスズキ・メソードのチェロ科で幼少期はバーツラフ・アダミーラ先生や藍川政隆先生、後には田中進先生にご指導いただきました。中学生の頃、地元のアマチュアオーケストラ公演のソリストとして推薦していただいたご縁でそのオーケストラに入り、進学した高校や大学のオケや、社会人になっても職場の仲間らと管弦楽団を組んで演奏を続けていましたが、コロナ禍で何年か活動が滞ってしまいました。

宮坂清之さん
本業である勤務医(麻酔科医)としての仕事も忙しく、十分な自主練習もできない中での参加には迷いもありましたが、カーネギーホールでの演奏機会を逃すわけにはいきません。少なくとも指揮者の柳澤寿男先生と予定された合同練習にはすべて参加できるよう、数ヵ月前から勤務調整をして臨みました。
柳澤先生は音楽を通じた平和活動をされているご経験からか、今まで指導を受けた指揮者の多くと違い「チェロの音程が悪い」といった批判的な言葉を避け、「ここは大事な部分なのでがんばりましょう」と励ますように声をかけてくださいました。アマチュア集団を率いて本番までに鑑賞に堪える音楽を作っていくことは、とても根気が要ることだと思います。先生の優しいご指導に感謝です。
演目のフィナーレ「新世界より」は1892年(133年前)に同じカーネギーホールの舞台で初演されました。チェコからアメリカに渡ったドヴォルザークが新世界での体験と祖国への想いを語る、音楽を通じた国際交流を象徴する曲でもあります。また、アンコールとしてニューヨーク在住の合唱団メンバーも加えて演奏した「フィンランディア」も当時のロシア帝国によるフィンランドの自治権を侵害する政策を背景に作曲されました。平和への願いと、今日もなお世界各地で続く不当な侵略や理不尽な政策に対する抗議の気持ちも込めて演奏しました。
鈴木鎮一先生の薫陶を受けた私たち卒業生が、
こうして音楽を通じて社会に貢献できたことにも、深い喜びを感じました。
小学6年生になると桐朋学園大学附属音楽高校への進学を目指し、故・小林健次先生に師事。毎日何時間も練習して無事に合格したものの、心境や環境の変化から地元の高校に進学し、その後は信州大学医学部に進みました。大学時代は弦楽オーケストラに参加しましたが、あまり熱心なメンバーとは言えず、1年ほどで退団することに。その後はバレーボールの練習に明け暮れる日々を送りました。信州大学卒業後は、慶應義塾大学整形外科学教室に入局し、整形外科医としての道を歩み、現在は東京で整形・形成外科のクリニックを開業しています。
我が家は全員、スズキ・メソードの教えを受けてきました。私の3人の兄妹や母、そして妹の家族も、チェロ・ヴァイオリン・ピアノなど、ほぼ全員が何かしらの楽器を演奏できます。年1-2回親族が集まるお祝いの席では、それぞれが楽器を持ち寄って合奏したり、得意な曲を披露し合ったりして、大いに盛り上がります。
そんな中、才能教育でヴァイオリンを学ばれた宮坂厚弘先生(歯科医師でJオーケストラ実行委員長)からお声がけをいただき、私も演奏者として参加させていただくことになりました。
Jオーケストラは、宮坂先生が設立された医療関係者主体のオーケストラで、今年で2年目。先生は「海外在留邦人こそ民間外交の最前線である」とのお考えのもと、今回の公演をニューヨーク在住の邦人の皆さまへのエールとして位置づけておられました。
当日の演奏会は、在ニューヨーク日本国総領事館の後援のもと、カーネギーホールにて開催されました。入場無料の特別公演ながら、2800席が満席となり、温かい熱気に包まれました。
プログラムは、
- ドヴォルザーク《交響曲第9番「新世界より」》(「遠き山に日は落ちて」の旋律でも知られる名曲)
- ベートーヴェン《ピアノ協奏曲第5番「皇帝」》
- エルガー《行進曲「威風堂々」第1番》
という、クラシックの王道とも言える選曲。指揮は柳澤寿男先生、ピアノ独奏は仲道郁代さんが務められました。
特に印象深かったのは、《新世界より》が1893年、作曲者ドヴォルザーク自身の指揮により、このカーネギーホールで初演されたという歴史的な事実です。130年以上の歴史を誇るホールで、我々日本人が同じ作品を演奏できるということに、静かな誇らしさを感じました。
アンコールではシベリウス《フィンランディア》を演奏し、ニューヨーク在住の日本人合唱団の皆さんによる大合唱が加わりました。観客は総立ちとなり、会場全体が一体となるような、大変感動的なフィナーレでした。
音楽と医療はどちらも「人の心に寄り添い、生きる力を与える」という共通の理念を持っています。この日、観客席には子どもから大人まで多様な世代が集い、「こんなにも素晴らしい演奏を聴けるなんて」との感想が会場のあちこちから聞こえてきました。
今回の公演には、宮坂厚弘さん、藤田いづるさんをはじめ、私を含めて7名のスズキ・メソード経験者が参加していました。鈴木鎮一先生の薫陶を受けた私たち卒業生が、こうして音楽を通じて社会に貢献できたことにも、深い喜びを感じました。
今、スズキの生徒の皆さんは、日々の練習や発表会のプレッシャー、失敗してしまったときの悔しさや恥ずかしさ、先生やご両親からの叱責など、つらい思いをすることもきっとあるかもしれません。でも、10巻くらいまで到達すれば、人前で演奏することに引け目を感じることはなくなるはずです。そしてその先には、思いもよらない素晴らしい機会や人との出会いが待っていることでしょう。
この原稿を書いていると、鈴木鎮一先生の『どの子も育つ、育て方ひとつ』という言葉と、あの慈愛に満ちた優しいまなざしが、まぶたに浮かびます。少しくらいの困難にくじけず、引き続き一緒にがんばっていきましょう!
息子さんと一緒に参加されたお母様の秋田協子さん
名古屋市熱田区の白鳥教室で3歳からヴァイオリンをはじめました。才能教育では親の協力が不可欠ですが、母の熱心な指導にも関わらず、10歳でやめてしまいました。それでも大学でオーケストラ部に入ったのは、わたしの中に情操の芽というか、音楽への憧れが育っていたからだと思います。それが息子にも受け継がれたのか、今回カーネギーホールという輝かしい舞台で、親子一緒にヴァイオリンを演奏することができました。母の愛用していたヴァイオリンを弾きながら、天国から見守ってくれているような気がしました。
47年の時を超え、カーネギーへ再び
私がこのオーケストラのことを知ったのは3月初めのことでした。大学時代のオケの先輩から、「ニューヨークに演奏旅行に行くオーケストラがメンバーを募集している、一緒に行こう」と誘われたのです。しかしながら、土日も仕事の予定が入っている私としては、すでに日程を調整するのは無理だろうと当初は考えており、お断りしていました。旅行期間のみならず、練習日程も含めると、すでに決まっている仕事の日程を相当キャンセルせねばならなかったのです。そのような状況で、それからわずか1週間の間に後輩もエントリーした、また知人たちもエントリーしたと聞きました。皆さん、カーネギーで演奏する機会は一生に一度あるかどうかだから、行かなきゃもったいない、一緒に行こうと勧めてきます。そういえば私は47年前にスズキ・メソードのイベントで、カーネギーの舞台に立ったことがあったなぁなどと思い出しながらも、今回は、いささか消極的でした。それでも続く周囲からの熱い誘いに、遂にエントリーを決心したのでした。オーケストラのコンセプトも知らぬまま、皆でカーネギーへ行こうと盛り上がったのです。
さて、エントリーした私がまずせねばならなかったことは仕事の調整でした。6月半ば以降の週末と渡米期間の勤務について、代理で勤務してくださる先生を探し始めましたが、これが予想外に順調で、2週間足らずですべて代理勤務を立てる目処が立ちました。クラシック音楽などに縁のない先生方からも、「ニューヨークのカーネギーホールで演奏だなんて何と羨ましい、是非楽しんできてください」と、背中を押していただきました。持つべきものは友、良き先輩後輩。本当にトントン拍子で演奏旅行参加の足場が固まりました。
とは言え、普段あまり楽器を触っていない私としては、多くの知らない方で構成されるオケにエントリーするのは、いささか勇気が必要でした。しかし驚いたことに、学生時代に年に一度首都圏の医歯薬看護学生有志が集まるオケで30数年前に私がコンマスを務めた演奏会に、今回主催者の宮坂さんが乗っていらっしゃったとご本人からお聞きし(宮坂さん、覚えてなくてごめんなさい)、一気に距離感が縮まり緊張が解けて行きました。またチェロやホルンなど他大の知人と学生時代以来の再会を果たしたり、共通の知人がいることでワグネル出身者と仲良くなったりと、練習に参加するたびに知り合いも増え、次第に馴染んでいきました。
さらに初対面ではありましたが、スズキ(国分寺支部)出身の林千香子さんとはスズキの話題で大いに盛り上がりました。鈴木鎮一先生の、『人は環境の子なり』、『どの子も育つ、育て方次第』に代表されるように、スズキ・メソードは音楽のプロを育てているのではなく、人を育んでいるのだ、それが将来成人となった時に素晴らしい効果を生んでいるのだ、という共通認識で、お互いスズキでヴァイオリンを習っていた幼少期を思い出しながら、スズキ・メソードに感謝しておりました。幼少期を思い起こせば、家庭での練習は母親がとても厳しかったと記憶していますが、わが師、宮澤進先生からは叱られた記憶どころか、強い語調で指導された記憶すらなく、ただただ温かく見守っていただいたことを覚えています。教育の力、深さに今さらながら感慨しつつ、天国の宮澤進先生には心から感謝しています。
さて、実際のカーネギーはというと、幼少期の記憶にある客席の方が大きく感じました。当時は圧倒されていました。自分自身が小さかったからでしょうか。天井が高く、日本にはないような5階席まであったことは記憶のままですが、47年前にはバルコニー席がもっと大きく、ゴージャスに感じていました。それだけ感動が大きかったのでしょう。逆に照明は今回の方が格段に明るかったように感じましたが、それは技術の進歩なのでしょうか。記憶にいささかのズレを感じながらも、見ている景色は47年前とほぼ同じ。カーネギーホールに戻ってきたという実感は、筆舌に尽くしがたい感動の塊でした。
今回は47年前には経験できなかった舞台裏や楽屋で開演前の時間を過ごせました。どこも美術館のようで、大いに歴史と伝統を感じ取ることができました。はじめは参加に消極的でしたが、本当に来てみて良かったと、演奏会当日は感動の連続でした。
中プロのベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番『皇帝』では2nd. Vnのトップサイドに抜擢していただきました。程よい緊張感の中、ソリストの仲道郁代さんのピアノを間近に感じながら演奏できるという、貴重な体験をさせていただきました。また後半は最後尾の10プルトで、オーケストラ全体を後ろから見渡しながら、解放感に浸りながら、緊張もせず心の底から楽しんで弾かせていただきました。このような機会に恵まれて、素晴らしい思い出ができました。
演奏終了後は、団員みな感動に耽りながらも、『遂に終わってしまったね』と、どこか寂しそうに、抜け殻のようになっており、同時に帰国後の現実を考えてなのか、この場を離れたくないというオーラが蔓延していたことが印象的でした(わたしも同じ)。
このたび、本オーケストラに締め切りギリギリで参加させていただき、非日常を楽しめました。主宰者の宮坂厚弘さんをはじめ、企画から公演終了までご協力、ご尽力いただいた皆様に、この場を借りて心より感謝申し上げます。
鈴木鎮一先生のおっしゃっていた(音楽は世界を救う)という理念があるのをステージで感じました。
2025年7月18日、あこがれのカーネギーホール。ほぼ満席の聴衆を前に、ステージ上にいる私。本当に私はここにいるの?
その昔、スズキ・メソードで選ばれた10人の生徒たち(テン・チルドレン)が、アメリカ、カーネギーホールで演奏をすると先生から聞き、カーネギーホールの存在は、私の子ども心に刻まれました。そんな記憶もあって、このたび、Jオーケストラからお声がけをいただき、喜んで参加させていただいた次第です。
錚々たる方々がステージに立った歴史ある舞台に、医療関係者中心のアマチュア音楽家が立って恥ずかしくはないか? また、少ない練習回数で大丈夫か? という不安もありましたが、ブラボーの声とともに、湧きあがる拍手の中、数ヵ月前までは知らない仲だったオーケストラの団員間はもちろん、会場の皆様とも心を一つにすることができ、この上ない幸せを感じる瞬間でした。
私は、国分寺支部の足立佳代子先生門下で、ヴァイオリンを習い始めたのは7歳と早い方ではなく、先に進んだ周りの友人を凄いなあと、眺めていたのですが、繰り返し聞くスズキ教本の音楽は確実に頭に入り、心を、人生を豊かにしてくれました。私は、家族に音楽家がいる訳ではなく、当たり前のように一般大学へ進んだのですが、大学オケ、企業オケでは、(音楽家を作るのではなく、人を作る)というスズキ・メソードで学ばれた素晴らしい方々と出会い、夏期学校や全国大会、同じ場所で同じような経験をしてきた共通の話題に花が咲き、楽しく、勝手に幼馴染のような感覚にならせていただいていました。
スズキの研究科を終えても、足立先生に教わり続け、大学では障害児のための音楽療法を勉強していた際に、心理学の指導教官から(人は環境の子なり、どの子も育つ、育て方次第)という教育理念、日本伝統の、(始めから良いものに接する)、(繰り返すことにより、上手くなる)という練習方法、などなど、スズキ・メソードは、(障害児には、理屈抜きで素晴らしい)と指導教官、栗林先生から言われて、松本まで鈴木鎮一先生のご指導を受けに通うようになり、その後、スズキ・メソードの指導者にさせていただきました。
私は、スズキ式に、月一回の合奏会をしながら、浦安支部として、10年間くらいお教室を開いていましたが、生徒さんの中には、東京藝術大学やジュリアード音楽院、コンクールに入賞する子もいてくれました。それは、先生の力というより、習い始めの幼い子どもには鈴木鎮一先生の指導法が、良かったということではないでしょうか?
改めまして、亡き鈴木鎮一先生、一人ひとりに合わせてゆっくり教えてくださった足立佳代子先生、お世話になった先生方、すべての皆様に心より感謝申し上げたいと思います。
Jオーケストラは医療関係者と医療系学生を中心に構成されたオーケストラです。(私たちの理念・活動に共感した医療関係者のご家族やそれ以外の方もご参加されています)
私たちはコロナの状況が落ち着いてきた今「音楽から生まれる共鳴・共感が社会の安定につながる」の理念を掲げ、蓋をしていた音楽への情熱を開放し、オーケストラ音楽活動を通して私たち演者同士、観客の皆さま、応援してくださる皆さまとの共鳴・共感を創生し、私たちの背景を活かした社会貢献活動の計画を並行しながら、この活動をすすめています。
2024年のコンサートはコロナ禍で音楽に対する情熱に蓋をしたまま学生生活を過ごした医療学生とともに、昭和女子大学人見記念講堂にて、ラフマニノフの交響曲第2番他をその情熱の解放を目的の一つとして演奏会を開催しました。
このカーネギーホールは3つのホールがあり、今回の大ホールは私の調べですと、ここ15年ほどは合唱のグループの公演はあっても、プロ、アマ含めて日本の管弦楽のフルオーケストラ公演はなく、すべてが大きな挑戦でした。幸運にもほぼ満席の客様に恵まれ、職業音楽家でない私たちにとっては最高の舞台であったことは間違いないことでした。
今回のNY公演の参加者にとって、カーネギーホールは音楽愛好家として、望むことすら想像しなかった場所──観客として聴くことはできても、まさか演奏できるなんて想像もしていなかった方がほとんどだと思います。
その舞台で演奏できたこと、そして私たちの音楽とメッセージを、在NY日系社会の皆さまのみならず、全米各地・世界中から訪れた方々と共有できたことを、心から嬉しく思います。
ホールにふさわしい演奏を目指し準備を重ねてまいりましたが、来場された皆さまから多くの温かいご感想をいただき、私たちが目指した音楽がしっかり届いたように感じています。
オーケストラの主宰者として、本番の日を迎えるまで、道のりは決して平坦ではありませんでした。確信を持てないまま迫られる決断、崩れゆく前提、調整に伴う葛藤──参加者個々の想いと、オケ全体・対外的な対応との間で揺れる場面も多くありました。ご批判をいただくこともありましたが、歩みを止めずに進み続けました。
幾度となく立ちはだかった壁も、まるで雪国の春に雪が静かに溶けてゆくように、気づけばふっと消えていました。あの瞬間、「すべては最初から決められていたことだったのでは」と思わずにはいられません。生まれてから、あるいはその前から、関りのあるすべての事象や御縁がこの日のためにあったように思えます。
またカーネギーホールでの演奏会前日には、ジュリアード音楽院へのキャンパスツアーと医療従事者のバックグランドを生かし、イザベラハウス(日本人が複数入居している老人ホーム)やJAA(ニューヨーク日系人会 医師・高見豊彦博士や高峰譲吉博士が設立に関わったニューヨークの日本人会)にてミニコンサートと医療講演会を好評のうちに終え、7月18日の本番に勢いをつけられたこと、またその本番のアンコールには在NYの日系合唱団の方60人が交響詩「フィンランディア」の中間部にある合唱パートで共演していただき、会場の観客様とまるで世界が一緒になったような感覚になったことも、ご報告いたします。
近年、世界では新興国の発展が著しく、本邦の相対的な地位は以前とは違った見方があるのは事実ですが、特にオーケストラで交響曲などの演奏を念頭に置いた時、その演奏をするために初心者が仮に金銭的に潤っていても、1年や2年練習したところで演奏のレべルに届くことは困難です。
今回の演奏会では、ありがたいことに演奏面でも良いフィードバックを会場のお客様から多くいただきました。日本在住のアマチュア音楽家がNYの方々に、日本人の経済面だけでなく、文化的な側面もしっかり表現できたのではないかと自負しています。(先進国の米国でも、公立学校の予算は地域の住民税で賄われていて、経済的に豊でない地域の公立学校では音楽の授業はないそうです)
私は小学生の時、ヴァイオリンを中断しましたが、幼少期にスズキ・メソードでの経験があったことで、上京したタイミングで再挑戦として大学オケに入部しました。その延長上で結果として今回のような演奏会を主宰することができ、両親に感謝しています。
今回のメンバーで同郷の高校先輩の伊藤大助先生もスズキ・メソード出身ですが、「やっていて良かったですね」と先日も会話したところでした。また、大学オケに入り関東医科学生オーケストラフェスティバルという団体に参加し、右も左もわからない状態の新入生として「シェラザード」がメインのコンサートに末席で演奏したのですが、その時のコンマスは今回ご参加の重松先生でした。その時から30年以上の月日が経過していますが、当時は恐れ多くお話しも中々できなかった大先輩の重松先生もスズキ・メソード出身と知り、不思議な御縁を感じています。
最後に、「音楽から生まれる共鳴と共感が社会の安定につながる」を理念に、準備、練習、本番、関連行事、事後報告と進めていますが、実際に音楽を奏でたのは、練習と本番でした。特にNYのお客様には本番のみでした。実際にAの音も出していない状況で、満席に近い多くの方が来場されました。
また、日本での練習が始まる前や、練習の様子も知らない状態で、多くの方のお力添えがありました。音楽そのものは演奏が始まらないと聴こえないですし、演奏が終われば消えてしまいます。しかし、音楽を奏でる前や後でも音楽をキーワードに多くの方と繋がりを持てたことは特別な体験でした。