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演奏に想いを込めた、鈴木裕子元会長の生誕祭 第1部

 
 鈴木裕子元会長は、2013年4月から2016年8月まで、才能教育研究会の第4代会長に就任。また、2014年4月から2018年3月まで、国際スズキ・メソード音楽院の校長を務め、2019年12月には、才能教育学園・白百合幼稚園創立40周年記念式典を園長先生として開催。2020年7月から豊田耕兒先生の後任として、国際スズキ協会(ISA)の名誉会長を歴任されていました。そして、2021年8月13日に享年80歳で亡くなられました。その悲しいニュースは、マンスリースズキ2021年9月号でお知らせしています。
 →マンスリースズキの記事
 
 コロナ禍を経て、11月30日(日)、港区西麻布の霞町音楽堂で、鈴木裕子元会長の85歳の生誕祭が賑やかに行なわれました。娘でピアノ科指導者の石川咲子先生と、兄で読売日本交響楽団ソロ・コントラバス奏者の石川滋さんの仲良し兄弟からの呼びかけに、国際スズキ・メソード音楽院時代に裕子先生に教えを受けた若手指導者たちが強力なサポートを展開し、大変スムーズに「裕子先生らしく、明るく、賑やかな偲ぶ会」になりました。
 
 会場のキャパもあり、一度に大人数が集中しないよう、午前10時半からの第1部では、教室のかつての生徒さんや音楽院時代の生徒さんが集合。ヴァイオリンの指導曲集から以下のような懐かしい曲が続き、さらに裕子先生が好まれた弦楽合奏曲も青木博幸先生の指揮で、披露されました。それぞれの曲の冒頭には、裕子先生の思い出スピーチが随所にはさまれ、演奏パートや並び方もそのつど変化し、見事な役割分担が続きました。それによって、演奏する側も聴衆も思いが凝縮された時間になったのです。
 
・(オープニング演奏)ユダス・マカベウス
・ラモー:ガヴォット
・バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲第1楽章
・ヴィヴァルディ:協奏曲イ短調第1楽章
・ヘンデル:ブーレ
・モーツァルト:ディヴェルティメントK.136第1楽章
・パッフェルベル:カノン
・鈴木鎮一:子供の幸を
・鈴木鎮一:キラキラ星変奏曲
 

裕子先生の思い出

 

 第1部では、演奏される前に参加された皆様からお一人ずつのスピーチ、そして合図が行なわれました。その抜粋をお届けしますが、まずはお嬢様の石川咲子先生からの冒頭の挨拶です。
 
 皆さん、今日はお越しくださり、本当にありがとうございます。スズキの指導者はこの時期、今日までがとても忙しいのをわかっていて、今日が母の誕生日だということを気づいて、この中で葬儀に参列できなかった方々からいつも私の迎えとか何かをやってほしいという声をいただいていたので、今回本当に皆さんにお狭い窮屈な思いにさせて申し訳ないんですけれども、うちは家族で、うちの父もアマチュアでヴィオラを弾いていたり、父の兄弟でも楽器を弾く者がいたので、親戚で集まっても室内楽をやったり、父が亡くなってからも父の同級生と私と母とで1年に1回、「夏の楽隊」として室内楽をやったり、山荘に出かけた時には、ピアノがあるので、母と一緒にモーツァルトを順番に演奏していこうとか、遊んでいました。
 母は本当にそういうふうに弾くのが好きだったんですね。なので今日皆さんにこうやっていろんな曲を聴いていただくことを本当に喜んでいると思います。とてもいい誕生日になると思います。一つだけ、今日なぜディヴェルティメントを演奏していただくかというと、母が生前本当に元気だったときから、お葬式で私が出棺するときにはディヴェルティメントで送ってというの3つも申しておりまして、多分桐朋時代からの思い出の曲でもあって、大好きな曲だったのです。その曲を皆さんでもう本当に皆さん上級生になっていらっしゃるので、弾いていただけたらということで、そのアイデアで選びました。今日はありがとうございます。よろしくお願いします。

 
続いて、皆さんのご挨拶をダイジェストで紹介します。
 
・裕子先生の思い出、エピソードがたくさんあるんですけれども、20年以上、小さい頃から先生の側にいさせていただいておりましたので、先生は私にとって第2のお母さんのような存在で、また憧れの理想の大人でした。優しくて、明るくて、強くて、エレガントでチャーミングでした。ラモーの「ガヴォット」は、先生のレッスンを受けた時に、先生が「私、この曲大好きなの」とおっしゃっていて、とても美しくて力強いメロディーがその先生にあるのだなと思って、私も大好きになった1曲です。
 
・私は小学校2年でヴァイオリンを習い始めたんですが、それが60年以上昔の話です。当時、裕子先生はまだ音大を出られたばかり、咲子先生はまだこの世にはおられませんでした。ということで、多分たくさんの教え子さんが集まっておられますけれども、私が最古参ではないかと。大変かわいがっていただきましたが、実はレッスンでいただいている曲で、あんまり気に入らない曲は家でほとんど弾かないという大変問題がある弟子でした。このバッハのドッペルもあまりレコードを聴きませんでしたが、数十年経って、今は大好きな曲です。先生を偲んで心を込めて演奏したいと思います。
 
・このヴィヴァルディのa-mollは、なかなか裕子先生からOKをいただけなかった思い出の曲です。一番苦戦した曲でもあったんですけれども、レッスンでは「ピカピカの出だしで弾いて」とよくおっしゃっていただきました。「ピカピカの出だし」というのは、今でも自分自身もそんな音が出せているのかなと思いながら練習していますが、自分自身も生徒に対していただいた言葉そのまま使わせていただいています。
 
・レッスンから遠ざかってしまった時期がありましたが、大人になってから一念発起して、夜9時くらいまでレッスンをしていただきました。本当にありがたいな、といつも思っていました。今日もですが、こうやって多くの皆さんと一緒に演奏できるのは裕子先生のおかげです。
 
・松本の音楽院では大変お世話になりました。皆さんとちょっと違う接点は、私の子どもが松本の白百合幼稚園に通っている時に、裕子先生が園長先生だったことです。子どもたちと遊んでくれるだけではなく、仕事を持ったお母さんたちに、子どもの思い出とか先生の話とかいっぱいしてくださって、そういう園長先生でした。白百合幼稚園の40周年記念のパーティで一緒に「ユーモレスク」を弾いたことも大切な思い出です。
 
・東京から車で松本まで運転して定期的に来てくださったこと、本当にありがたく感謝申し上げます。音楽院のレッスンでは、結構厳しかったり、「まだまだね」って言われたりとか、「素敵じゃないですか」と感想をいただいたりとか、何か絶妙なタイミングでアメとムチで褒めていただいたなと今では思っております。裕子先生は今、この場所で聴いていただけていると思いますので、楽しく演奏したいと思います。
 
 などなどが続き、締めの言葉としてご長男でコントラバス奏者の石川滋さんからもご挨拶をいただきました。
 
 いらしてくださった皆様、本当にありがとうございます。もうなんか感動しちゃって、音が始まった瞬間から涙が止まらなくなっちゃって、まさか自分がさんざん聴いてきたこの曲を聴いているだけで涙があふれたんですけれども。本当に演奏してくださった方々、ありがとうございました。何しろ、母はとにかくこうやってたくさんの人に囲まれて、言ってみればちやほやされるのが大好きでした。お祝いっていうと、もう朝からソワソワしてね。でも自信を持って、本当に人が大好きな母でした。僕はもう写真にも出てきましたけれども、あの笑顔にほんと助けられた人生だったなと。音楽の縁を強く感じます。亡くなった父や母のことを音楽を通して思い出しています。ただ、僕は音楽というのは、今生きている人たち、我々が今生きている喜びを分かち合っていくことが大切だと思っているので、またこれからもがんばっていきたいと思っています。皆さんも一緒に未来に向けてがんばりましょう。今日はありがとうございました。
 
 第2部で予定されていた裕子先生の最後の公の演奏動画の上映もありました。それは、2019年9月29日にまつもと市民芸術館主ホールで上演された舞台劇”音にいのちあり~鈴木鎮一・愛と教育の生涯~”冒頭での「名古屋の子守唄」の演奏シーンでした。その9月に胆管癌と診断され、闘病生活が始まり、応急処置の手術を終えて退院された4日後の舞台演奏だったのです。その演奏は、叔父である鈴木鎮一の舞台劇にとって、大変象徴的な冒頭のシーンでした。病をおして舞台に登場された裕子先生のヴァイオリンを弾かれる姿は、高潔で気品がありました。
 
 参加の皆さんで記念撮影をして、第1部はお開きとなりました。


 

演奏に、語りに、花が咲いた第2部

 
 続いて、13時半からはレイアウトが変更され、バンケットスタイルに模様替え。第2部として、裕子先生とゆかりのある皆様の演奏と思い出話のご披露が続きました。
 
 以下のような演奏とお話が続きました。
・ヘンデル:ヴァイオリンソナタ ニ長調第1、2楽章(滋さんのコントラバス、咲子先生のピアノ)
・倉田澄子先生(チェロ科特別講師)のスピーチ
・ショスタコーヴィチ:5つの小品より(裕子先生の生徒さん、三島万稔くんと池田清花さんのヴァイオリン)
・印田礼二先生(関東地区ヴァイオリン科)のスピーチ
・東 誠三会長のスピーチ
 
 事前に集められたスライドショーでは、秘蔵の写真などたくさんの写真が紹介されました。食を楽しみ、人生を謳歌された裕子先生のスライドショー、懐かしい場面もあれば、ご家族や友人たちとの強い絆を感じさせるひと時となりました。以下をクリックすると、ご覧いただけます。
 

 
・土居孝信先生(幼児教育研究会会長)のスピーチ
・青木知子先生(松本白百合幼稚園園長)のスピーチ
・ディッタースドルフ:ヴィオラとコントラバスのための二重奏曲(滋さんのコントラバス、奥様沙帆さんのヴィオラ)
・裕子先生の実弟のベーシスト、鈴木良雄さんのスピーチ
・ジャズ演奏(鈴木良雄さんのピアノ、滋さんのコントラバス)
  この鈴木良雄さんの自叙伝が大変興味深い内容です。
  信州木曽時代の裕子先生、桐朋学園に進まれた当時の様子もわかります。
  →死ぬまでジャズ〜鈴木良雄・自伝
・ヘンデル:ブーレ(末廣悦子先生ら旧友、音楽院生徒だった指導者たち)
・ベートーヴェン:メヌエット ト長調(末廣悦子先生ら旧友、音楽院生徒だった指導者たち)
・最後に、舞台劇に登場された裕子先生による「名古屋の子守唄」
 
 以上で、お開きとなりました。それぞれのスピーチは編集が終わり次第、掲載していきます。終日、和やかな雰囲気の中、裕子先生を偲ぶ会となり、皆さんからの心のこもったスピーチ、そして演奏に包まれた場となりました。天国におられる裕子先生にこの日の皆さんの想いが届いたことでしょう。


 
 当日、スピーチをしていただく時間がなく、後日、裕子先生の思い出をお寄せいただいたお二人からのメッセージを以下に記します。
 
裕子先生の生誕85年を祝う会に寄せて

宮坂勝之  
聖路加国際大学 名誉教授

 
 裕子先生の生誕85年を祝う会をご企画くださり、こうしてコロナ禍で語り合うことが難しかった思い出を分かち合う機会を作ってくださった咲子様、滋様に心より感謝申し上げます。
 
 裕子先生との直接のお付き合いは、この20年ほどのことでした。晩年にご病気が見つかり、聖路加国際病院で治療を受けられるまで続きました。皆様ご存知の、あの明るく前向きなご性格に、私たち医療者もどれほど励まされたことでしょう。咲子様たちご家族に温かく支えられ、最後まで周囲から愛され、ご自身の役割を全うされた、まさに大往生でございました。
 
 会場を見渡しますと、最も貫禄がありそうなチェロ科の中嶋顕先生ですら私よりお若いですから、ここからは私の個人的な思い出を少しお話しさせてください。
 
 才能教育岡谷支部が始まったばかりの頃、私が通い始めたのは1947年12月初旬、ちょうど「恵比寿講」の寒い日でした。3歳7ヵ月。母に連れられて雪道を歩いた記憶は明瞭なのですが、実際何をお稽古したのかは全く覚えていません。というのも、私は極端な食糧不足の終戦期に生まれ、極度の栄養失調による「栄養性発達遅滞」の状態にありました。それを気にした母が、鈴木鎮一先生の「どの子も育つ」という言葉に、文字通りすがる思いで門を叩いたのです。戦後2年目のことでしたが、鈴木先生と母の存在は私の生涯にとって大きな宝です。
 
 肝心のヴァイオリンですが、やっとたどり着いた第1巻の終わりの「万年ガヴォット」の谷に陥った頃には、後から加わった年少児に次々と追い越されることに、本人はすっかり慣れっこでした。ただ、母にはとっては心労で、思いあまって鈴木先生に直談判したこともあったようです。鎮一先生は、「松本にも“一人くらい”は同じような人はいますよ。とにかく勝ちゃんは音色が素晴らしく、音程もしっかりしています。継続は命なりです」と励まされたそうです。母は鈴木先生のユーモアを理解し、耐えてくれたのだと思います。
 
 相変わらず家での練習は形ばかりでしたが、毎週のお稽古には通い続け、足かけ14年で研究科卒業に辿りつきました。私はスズキの一番の劣等生だという自覚は常にありました。その間、夏期学校などで松本に行く度に、裕子先生や志田とみ子さんなどのエリートたちが壇上でのびのびと演奏する姿を、まるで別世界の出来事のように眺めていたものです。
 
 時は流れ2006年、私が安曇野のこども病院長に就任し、スズキ・メソードやサイトウキネンとの交流を模索する中で、咲子先生、そして、あの“あこがれ”の裕子先生とお会いする機会ができました。その後、私が異動した聖路加国際病院で、2012年に日野原重明101歳記念コンサートを企画した折、ひとつの転機が訪れます。咲子先生のご紹介で、印田先生ご指導の品川支部の子どもたちの演奏に触れた日野原先生が、ご自身が何と100歳を機に俳句を始められたこともあり、スズキ・メソードが一茶の俳句を用いていることに強い関心を寄せられたのです。
 
 私が初等科の頃、スズキの俳句はまだ『猫の仔の』(1番)で始まる100句の形ではありませんでした。鎮一先生はその時点で試行錯誤をされており、先生が『良い音は 肘で進めよ お馬の毛』と唱えると生徒が復唱し、最後にちょっと間をとり『ホントカナ?』と笑わせることで、私たちの反応を楽しんでいたように思います。そして、『弓先に力を込めてふらつかず、肘で進めよお馬の毛、、、吸いついた弓一筋のうまさかな』など、七五調の教えを次々に繰り出し、弓の使い方や音楽の表現を、俳句のリズムとともに学びました。
 
 子どもの頃、私は次のような一茶の俳句を覚えながら、その意味を考えていました。
『日本は 入り口から さくらかな』(4番) 
鎖国時代の信州の田舎育ちの一茶さんが、なぜ「日本」と「国」を意識したのだろう。
『こう生きて いるもふしぎぞ 花の陰』(100番)
  何とも不思議な俳句だ。いつか意味がわかるのだろうか。
 
 さて、そのコンサートの数日後、日野原先生と高名な翻訳家ドナルド・キーン先生、そして私が同席する場面がありました。私は、子どもの頃の俳句の解釈とスズキ100句とのつながりをお話ししました。さらに、スズキでは、モーツァルトをモーツァルトのまま子どもに聞かせるように、俳句についても子どもに理解させるために語彙や表現を変えることなく、「本物の英語」で表現したいとお話ししたところ、お二人から、「貴方たちこそ本物の日本語を愛する鈴木先生の心を本物の英語で発信すべき」と背中を押されました。
 
 この話に、当時会長を退いたばかりの裕子先生の目が輝いたのです。かねてより海外の指導者に一茶の俳句を広めたいと思われていたとのことでした。
 

 早速、裕子先生から、長年一茶の俳句に取り組んできた切り絵作家の柳沢京子さんと私たちで、一茶の生家の野尻湖地方の記念館を訪れ、構想を固める話が提案されました。ピアノ科の咲子先生は折悪しく台風の影響で加われませんでしたが、このプロジェクトは非常に難しい作業でした。伝統的な江戸時代の一茶の俳句の語調や語感を損なわず、現代社会、そしてスズキの心を織り込み、音節感の異なる英語圏の世界へ組み入れる。しかも、切り絵作家の感性も尊重するという、いくつもの要素を両立させる必要があったからです。

 この難題に対して、裕子先生は、あたかも作曲家・独奏者・伴奏者の美しい流れに沿うような、素敵な助言を沢山くださいました。そのおかげもあり、2020年の出版にこぎつけられ、生前にこの本を手に取っていただけたことは本当に幸せでした。

 さらに嬉しい話は、この鈴木先生の100句の英訳本が、米国の人気ミュージカル演劇家のモーリー・イェストンさんの目にとまり、2025 年1月に日生劇場で初演される『Issa in Paris』の中で使われることになったのです。英訳された俳句が、今度は音楽に乗せてパリで唱われるという、おそらく一茶も想像できなかった展開です。「次はドイツ語でね」とでも仰いそうな、あの茶目っ気あふれる裕子先生の笑顔が目に浮かびます。
 
 最後に、裕子先生が喜びそうなお話しを1つ。思わず笑ってしまいましたが、私の人物紹介を今流行りのAIに訊ねた人が、私に会ったことも演奏を聴いたこともないAIの、「3歳でスズキ・メソードを始め、超絶技法と立派な感性を身につけた音楽家で医学博士」という “トンデモ”回答を真に受け振り回されたという、とても笑えない話しがありました。
 
 スズキの最劣等生だと自負していた私に、「そういう宮坂先生だからこそスズキの顧問になって貰ったのよ」と言ってくださった裕子先生を偲びつつ、心より生誕85年をお祝い申し上げ、私のスピーチとさせていただきます。


 もうお一人、松本白百合幼稚園の上條順子理事長です。
 

学校法人才能教育学園 認定こども園 白百合幼稚園
理事長 上條順子

 

右から白百合幼稚園の青木知子園長、上條順子理事長、双葉ヶ丘
幼稚園の土居孝信園長、光が丘幼稚園の下苙敏大先生

 裕子先生を村井のアパートに数回お送りしたことがあります。繊細でありながら豪快な一面を持たれていたように思います。病気については最後までお話しにならなかった。きっと腹痛倦怠感などおありだったと思いますが園長・理事長を立派にお務めされました。私は理事会でお会いするだけでしたがにこやかに微笑んでおられました。園長も理事長も未体験でありながら会を進められていました。

 そして、黄疸がでられて、はじめて重大な病気であることが私には直ぐわかりました。もっと早い段階でで気づけなかったかと後悔ばかり。申し訳ありませんでした。 
 
 東京に行かれる前にお話をお聞きしたかったです。40周年の時に初めて御演奏を聴きました。もっともっとお聴きしたかった。4年後の50 周年に向けて始動しなければ。またお世話になりますがよろしくお願いいたします。偉大な裕子先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。