鈴木鎮一先生と齋藤秀雄先生のベルリン留学時代の交流

 

2024年8月15日付 市民タイムス

 8月15日付の市民タイムス紙(松本市)では、開催中の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に合わせて、今年2月に亡くなられた小澤征爾さんの恩師、齋藤秀雄先生(1902〜1974)の没後50年を伝えるとともに、改めて鈴木鎮一先生(1898〜1998)と齋藤秀雄先生が松本市にもたらした音楽芸術の聖地、松本としての意義を掘り下げました。

 その紙面には、鈴木鎮一記念館前館長の結城賢二郎さんと現在、専従で対応されている等々力由季子さんが登場。ベルリンに留学されていた時代に二人の交流を示す写真とともに紹介されていました。結城前館長は二人を西洋音楽の本場で学んだ「同志」と捉え、結果的に松本に「楽都」としての重要な位置付けに関わってくださったことに言及されています。
 
 また、記念館初代館長の望月謙児さんが1999年に市民タイムスに寄稿された「齋藤秀雄没後25年、チェロ・グランド・コンサートに寄せて」の記事についても言及されていますが、実はその記事も記念館には保存されていて、改めてここで全文を紹介することにします。いかにも望月さんらしい切り口で、こと細かく、晩年の鈴木先生から直に聞かれた齋藤秀雄先生の留学時代の様子が記載されています。特に鈴木鎮一先生の実弟でチェロ奏者だった鈴木二三雄さんと齋藤秀雄先生の交流はとても新鮮な話題です。

1999年6月30日付 市民タイムス


 
 そこで、マンスリースズキ編集部では、この写真に写っている人物をできる限り調べてみました。記念館に残っているこの写真とそして手書きによる人物名だけが、手掛かりでした。

 下部に「Hikaru Yamauchi is Actor」とあるのは、単なるメモなのか、それともこの人物名を記した自分を表しているのかは不明です。なにしろ撮影は1924年(大正13年)5月、今からちょうど100年前の写真なのです。ベルリン西部の中心的な地区、シェーネベルクで開かれた 近衛秀麿子爵の送別会でした。

 しかし、手書きによる人物名をもとに試みに調べてみると、以下のようなことがわかってきました。敬称略で右上の方から行きます。
 
田中英太郎
 東京音楽大学研究科を卒業後、ベルリン音楽大学に留学したヴァイオリニスト。娘が後年、鈴木先生との交流を持つピアニストの田中希代子。希代子の弟は、N響コンサートマスターとして活躍された田中千香士。
 
平田義宗
 東京音楽大学中退、ニューヨークに留学後、ベルリンで学んだピアニスト。1925年に帰国。ハノン、バイエル、ツェルニーらのピアノ教本の翻訳、普及に努めた。わが国初のピアノ協奏曲奏者。
 
ジェームス・ダン
 東京音楽大学研究科修了後、1922年渡独。現在のベルリン芸術大学でピアノを、ジングアカデミーで作曲を学んだ。帰国後はレコードやラジオで活躍する一方、チェリストの鈴木二三雄さんとの交流もあった。
 
山内光
 本名は、岡田桑三。80年の生涯のうち、20年間を映画俳優、山内光として劇映画の世界で過ごした。ベルリンに留学した当時は、舞台美術家を志していた。戦時中は戦時プロパガンダ雑誌「フロント」の編集人。後に東京シネマの創業者であり、プロデューサー。
 
齋藤秀雄
 1922年、上智大学を中退し、近衛秀麿に随伴して渡独。約半年をベルリンですごし、ライプツィヒの王立音楽学校に入学、クレンゲル教授に師事。2度目のドイツ留学ではフォイヤマンに師事。原典版の楽譜を読み込み、熱心な指導スタイルを確立した。
 
池 譲
 東京音楽学校に学び、ベルリン・シュテルン音楽学校に留学。帰国後はヴァイオリニスト、ヴィオリストとしても活躍。第1回日本音楽コンクール作曲部門で入選もしている。後に、東宝映画専属の作曲家として、また放送音楽の分野でも活躍。
 
近衛秀麿
 山田耕筰に理論・作曲法を学び、1923年にベルリンで指揮法や作曲法を学ぶ。1924年には自費でベルリン・フィルを雇い、ヨーロッパ指揮者デビューを果たした。帰国後、新交響楽団(現在のN響)を創立。「おやかた」の愛称で知られる。
 
鈴木鎮一
 1921年10月、徳川義親侯爵らの世界一周旅行に同行し、ドイツヘ留学。ベルリンで師を選ぶべく音楽会めぐりをする。翌年、クリングラーに師事。1928年帰国後は、鈴木クヮルテットとしてクラシック音楽界を席巻。戦後、松本で才能教育運動をスタートさせた。
→鈴木先生の生涯
 
真篠敏雄
 牛込の成城尋常小学校主事だった小原國芳(後に玉川学園を創設)と一緒に働いていた音楽教師が真篠敏雄だった。パイプオルガンの技能を磨くためにベルリン大学に5年間の留学。帰国後、オルガン指導を続け、玉川大学などで活躍した。Shinjouと読むのではなく、Mashinoが正解のようである。
 
 というわけで、多士済々の面々がいたことがわかります。青雲の志に燃えた若者たちが、黄金の20年代と言われたベルリンで共通の時間を持っていたこと自体が素晴らしいことです。タイムマシンがあれば、飛んで行きたいくらいですね。