研究生時代の思い出を語るシリーズがスタートしました。
第1回は島野ロンダ先生です。
国際スズキ協会(ISA)のアレン・リーブCEOが公式Webサイトで、かつて松本の才能教育音楽学校で学ばれた海外からの留学生(研究生)たち50人に及ぶ方々の思い出を掲載し始めたことは、先月のマンスリースズキで報じたところです。
そこで、今回から毎回一人ずつ和訳で紹介することにしました。第1回は、研究生を経て、日本人と結婚され、甲信地区ヴァイオリン科指導者になられた島野ロンダ先生に登場していただきます。
こちらがISAのサイトでの島野ロンダ先生の記事です。
→島野ロンダ先生の記事
This article appears originally on the ISA website, and is reprinted with the permission of the ISA.
以下の翻訳は、島野ロンダ先生の子どもさんたちの協力で翻訳されたものです。
島野ロンダの情熱は、鈴木鎮一先生の母国語哲学を用いて若い才能を育てることにあり、彼女はそれを二つの異なる分野で実践しています。松本市の素晴らしい子どもたちにスズキ・メソードのヴァイオリン指導者として、鈴木鎮一先生の哲学を指導に取り入れながら、音楽という芸術を伝授しています。同様に、松本市のスズキ・メソードに基づく幼稚園である白百合幼稚園では、3歳から6歳の幼児に対して同じ「母語教育」の原則を取り入れて英語を教えています。彼女の取り組みは教室の外にも広がり、言語の壁を越えて鈴木鎮一先生の教えと哲学を世界中に広め続けるためにTERI(才能教育研究会)を積極的にサポートしています。
当時の名前: ロンダ・ハリソン
日本以外での居住地: 米国フロリダ州
日本で学んだ楽器 :ヴァイオリン
日本での出来事:
1983年〜1985年:鈴木鎮一先生のもとで学び始める
1985年〜1988年:数回1ヵ月間の来日
1988年〜1990年:週1回のレッスン
思い出
鈴木先生との思い出や、彼のもとで学ぶために日本を訪れたことで私の人生がどのように形作られたかについての個人的なエピソードを書いてほしいという依頼を受けて以来、この重大な課題に頭を悩ませてきました。私の心は、大切な思い出で溢れ、それだけで何冊もの本が書けるほどです。しかし、この課題の難しいところは最も深い思い出を選ぶだけでなく、この旅、つまり、卒業後に日本に戻り、ここでの生活を始めることになった最初の日本への旅が、どのように予測不可能な展開を見せたかを振り返ることにあります。何を書くかを決めるにあたり、私は(この企画の発案者)アマンダ・シューベルト先生が親切にまとめてくれたアイディアの一覧に目を向け、「なぜ長期間日本に行くことに決めたのか?」という質問に答えるところから始めました。
私はスズキ・メソードとともに育ったわけではありませんが、音楽教育、特にヴァイオリンと幼児教育を学ぶ過程で、このユニークなアプローチに対する深い好奇心が芽生えました。私はできる限り多くの文献を読み、理解しようと努めましたが、80年代にはアマゾンのような便利なサービスがなかったため、スズキ・メソードに関する膨大な文献にアクセスすることは難しかったのです。しかし、スズキ・メソードへの入り口を大きく切り開いたのは、卒業論文に向けた自主研究中に、その先駆者であるクリフォード・クックとブルース・アンダーソンとの出会いです。当時引退していたクリフォード・クックは、私の無数の質問に喜んで答えてくれました。ブルース・アンダーソンは、日本での研究生活を終えたばかりで、自分の経験を分かち合いたいと熱心でした。私が日本に行く動機を見つけたのは、彼らの熱い励ましのおかげでした。二人は、松本で鈴木先生のもとで学ぶことが、スズキ・メソードを理解するための最も確実で唯一の方法だと確信していたからです。彼らは、私が鈴木鎮一先生と森ゆうこ先生のもとで勉強できるように手配してくれました。期間に指定がなかったため、初めは6ヵ月の滞在を予定していました。しかし、私は学びに夢中になり、スズキ・メソードの真髄に触れる充実した2年間の旅を終え、1985年に才能教育音楽学校を卒業しました。
米国に帰国後、私は自分のスズキ・メソードのヴァイオリン教室を始めました。しかし、まだ疑問が残っていた私は、お金を貯めてはできるだけ頻繁に松本に1ヵ月間戻るようにしていました。友人たちの強力なネットワークに助けられたため、宿泊に困ることはありませんでした。数年後、私はその友人のひとりと結婚し、日本に永住することになりました。
夫の仕事の拠点は松本ではありませんでしたが、電車で松本に行き来できる距離であったため、鈴木先生のレッスンを毎週続けることができました。また、森先生のクラスや才能教育幼児学園も見学しました。ある日、会館での素晴らしい一日を過ごした後、私は鈴木先生に事務所までついてくるように言われ、日本の才能教育指導者として登録するよう事務所に要請しました。日本には数え切れないほどの優秀なスズキ・メソードの先生がいらっしゃるため、ここでヴァイオリンを教えようとは想像もしていませんでした。私は、指導者として登録することにしましたが、ヴァイオリンを教えるのではなく、スズキ・メソードの哲学を英語教育に応用するつもりで登録を承諾しました。
しかし、鈴木先生はまるで心を見透かしているような鋭い洞察力をお持ちでした。レッスンでは、私の生徒の進捗について尋ねてきました。私は生徒たちが順調に成長していると安心させるように答えましたが、その生徒たちは「英語」の生徒であり、「ヴァイオリン」の生徒ではないことは都合よく省いていました。しかし、彼は私がヴァイオリンを教えていないことを感じ取られていたようです。レッスンに生徒を連れてくるように言われ、私が返事をためらったとき、彼の顔に悲しげな表情を浮かばせました。「ダメだ、私は君にヴァイオリンを教えるように頼んだのに、君は私の要求に従わなかった」と彼は言いました。彼の言葉は私の心に響き、最も尊敬している先生を傷つけることになると気づいた私は、すぐに数人のヴァイオリンの生徒を教え始めました。
当初は、夫が研修医を終えたら米国に移住する予定でした。しかし、彼は仕事に夢中になり、私は鈴木先生との毎週のレッスンと、やがて自分の3人の子どもたちも含む少人数の生徒たちを教えることに大きな満足感を覚えました。私の目標は、できるだけ多くの情報を吸収し、米国に帰国した際に、日本で学ぶ機会がなかった他の指導者や親たちを支援できるようにすることでした。来日前の私にはスズキ・メソードの真髄が不確かだったこともあったため、鈴木先生の教育目標やヴァイオリン演奏に関する貴重な見識を他の人にも理解してもらえるように手助けしたいと願っていました。
時が経つにつれ、米国に戻るという考えは現実的ではなくなっていきましたが、スズキ・メソードに関心を持つ人々を支援する別の道が開けてきました。鈴木先生が才能教育音楽学校に定期的に通わなくなった頃、ワルトラウト夫人は世界中から送られてくる資料や手紙を読むのに苦労されていました。私は鈴木先生のお宅を訪ね、一緒に手紙を読み、関連する資料を探し、返事の手紙の作成を手伝いました。さまざまな質問に対する答えを探る中で、私の理解は深まっていったのです。これらの訪問に喜びを加えたのは、ワルトラウト夫人が私の娘にヴァイオリンを弾くようにと誘ったことでした。鈴木先生は別室からその音を聴かれ、ときどき出てきて娘に教えてくださいました。彼の子どもたちへの愛情は子どもたちがいるだけで胸がいっぱいになるように見え、子どもたちの音楽の響きが彼にさらに大きな喜びをもたらしました。鈴木先生は私の娘が7歳のときにお亡くなりになりました。娘が先生のために最後に弾いた曲は、先生が「スズキ・トーン」を教えるために愛用した「ユーモレスク」でした。鈴木先生の逝去後、私はワルトラウト夫人との朗読セッションを続けました。その間、彼女から鈴木先生についての無数の話を聞くことができたのも、大きな特権でした。
私が鈴木先生のもとで学んでいた頃のエピソードの中で、特に印象に残っており、生徒たちにもよく話しているものがあります。鈴木先生はしばしば建物中を歩き回り、「新しいアイディアだ!」と宣言してみんなを集め、この「新しい演奏ポイント」をグループレッスンで共有されていました。彼は他の人たちが演奏技術を向上させる手助けをすることに絶えず献身的であり、常に基本的な技術を向上させるための新しい方法を考えておられました。
ある日、当時の鈴木先生の秘書だった保高みちるさんが会館内を慌ただしく駆け回っていました。常に忙しそうにしていることで知られていたみちるさんは、普段から階段を駆け上がったり駆け下りたりしていました。多くの人が彼女にスピードを落とすようにと言うのですが、彼女はいつも冗談めかして従った後、再び急いで動き回っていました。その日、彼女は特に焦っているようで、あらゆる部屋を探し回っていました。私ともう一人の研究生が一緒にいましたが、それが誰だったか思い出せないのは残念です。みちるさんは私たちに「鈴木先生を見かけたかどうか」と声をかけてきましたが、私たちは「見ていない」と答えました。しかし、彼女は再び私たちの前を通り過ぎたため、私たちは「何か手伝えることがあるか」と尋ねました。すると、彼女は小さな冗談めいた声で「鈴木先生をなくしました。」と物をなくしたかのように答えたのです。
みちるさんは、「鈴木先生が車でどこかに行かれたわけではないので、遠くには行っていないはずだ」と説明しました。鈴木先生がよく行かれる喫茶店にも姿はなく、ヴァイオリンも見当たりません。すべての部屋を再度確認した後、私たちは一緒に別の建物に向かいました。建物に入ると、誰かが同じ音を繰り返し弾いているのが聴こえました。音の出所に近づき、みちるさんがノックして部屋に入ると、中には鈴木先生がいらっしゃいました。
鈴木先生に連れられ会館に戻ると、彼はそこでおそらく1時間ほど1つの音の研究に没頭していたと説明されました。その音を様々な方法で弾くことで、間違った弾き方をすべて探り、なぜそれらが効果的でないのかを理解しようとされていました。その日、彼は重要な見識を共有しました。教える側は単に自分が弾く方法を知り、生徒にそれを真似させるだけではなく、うまくいく方法とそうでない方法を理解し、それらの違いの背後にある理由を把握すべきであると。
「鈴木哲学」と 「スズキ・トーン」は、スズキ・メソードの特徴的な要素であり、私は鈴木先生がその難解な「スズキ・トーン」を追求する姿を直接見る機会に恵まれました。鈴木先生との数々の大切な思い出の中でも、この思い出が際立っているのは、私が生徒たちと定期的にする教訓だからです。一つの音を精査し、左手と右手の両方でうまくいかない場合を特定することに時間を掛ければ、最も優れた音色、イントネーション、ビブラートを生み出すために目指すべき方法が理解できるはずです。
私の歩みを振り返ってみると、偶然な状況や選択がいかに予期せぬ、しかし充実した道へと導いてくれたかがよくわかります。鈴木先生のもとで学ぶという決断は、単にヴァイオリンや指導法を習得するためではなく、教育の理解に深い影響を与え、私の人生観や世界観を形作る哲学の探求でもありました。私が学んだ掛け替えのない教訓、吸収した知恵、鈴木先生とのユニークな体験は、私の指導の旅を続ける上での指針となっています。今、私の使命は、スズキ・メソードの本質を志望する音楽家や教育者に伝えることで鈴木先生の教えを永続させることです。鈴木先生との時間を振り返ると、このような機会を与えてくださったことに深く感謝するとともに、彼の遺志を継承する責任を感じ、自分自身と他人に、忍耐、献身、そして何よりも音楽を作る喜びの大切さを常に心に残すよう努力しています。