松本の研究生時代の思い出を語るシリーズです。
第3回はこの企画を推進されたアレン・リーブ先生です。
国際スズキ協会(ISA)の公式Webサイトでは、かつて松本の才能教育音楽学校で学ばれた海外からの留学生(研究生)たち50人に及ぶ方々の思い出が掲載されています。
その思い出のシリーズを、毎回一人ずつ和訳で紹介しています。今回は、国際スズキ協会(ISA)のCEOとして、各地域のスズキ・メソードの活動を奨励し、調整をしてこられたアメリカのヴァイオリン科指導者であり、ティーチャー・トレーナーのアレン・リーブ先生の思い出を紹介します。
こちらがISAのサイトでのアレン・リーブ先生の記事です。
→アレン先生の記事
This article appears originally on the ISA website, and is reprinted with the permission of the ISA.
思い出
アレン・リーブ
松本で鈴木先生のもとで学んだ思い出を振り返ってほしいという依頼がありました。そこで、具体的には、私が得た主なもの、個人的な勉強の道のりなどに加えて、松本を訪問した最初の印象から会館を去るまでの変化などについて、記してみようと思います。
これは「
デイヴィッド・カッパーフィールド」(編集部註:チャールズ・ディケンズの長編小説。個性豊かな人物が数多く登場し、前半は自伝的要素が強い)にはならないでしょう。しかし、鈴木鎮一先生の才能教育の主な信条が、スズキの生徒としての私の人生に大きな影響を与え続け、特別な視点を与えてくれたことは確かです。いい機会ですので、これまでのことを振り返ってみようと思います。
松本に来る前に、スズキ・アプローチとスズキ・ヴァイオリンのレパートリーについて十分な基礎があったことは幸運でした。メンフィスの学部でスズキの指導を始めた時、その街のコミュニティ・ベースのスズキ・プログラムが音楽学部に持ち込まれたのです。その後、当時私が知らなかっただけでしたが、全国各地で始まったばかりのスズキの夏期講習会に何度か参加しました。そこで私は、実質的にアメリカにおけるこの運動の先駆的な指導者たち全員と、ヨーロッパから来た何人かの指導者たちを見学し、学ぶことができたのです。その後、ジョン・ケンドールの大学院に2年半通い、ストリング・ハウスでスズキ・メソードのすべてにどっぷり浸かりました。1975年の夏には、ハワイで開催された第1回世界大会に参加し、世界中から集まった先生方、そして何よりもスズキ先生ご自身のセッションに立ち会うことができました。そこでは参加者たちの熱意と興奮が伝わってきました。まさに発見の時代でした。この経験が、私が松本の才能教育研究所に留学しようと考えるきっかけになったのだと思います。
大学院を卒業した後、松本に行くのは自然なことだと思っていました。「スズキ」というムーブメントの創始者がそこにいらして、彼は年齢を重ねていましたし(当時は今の私よりずっと年上でしたが!)、行かない理由はありませんでした……少なくとも私の非常に自己中心的な世界観では。自分の純真な気持ちを信じて、ヴァイオリンと巨大なスーツケース2個と片道航空券を持って、日本へ向かったのです。
鈴木先生の不朽の名言を借りれば、「日本の子どもはみんな日本語を話す!」ということでした。もちろん、大人も含めて。私は突然、まったく異なる文化の中にいる外国人であり、コミュニケーションも読み書きもできない自分に気づきました。幸いなことに、私の周りには他の外国籍の教育実習生や、日本アルプスに囲まれたこの小さな田舎町の生活に溶け込めるよう助けてくれる地域の人たちがいました。才能教育会館にいることは、イリノイ州のストリングハウスにいるのと同じような感覚だったのです。会館での私たちの世界は、スズキ・メソードに関わる活動が中心で、そこでの勉強はひたすらレッスンに集中する性格のものでした。初めてのマンデイ・コンサートで会館ホールのステージに立ったときの恐怖といったら……。毎週、鈴木先生や他の研究生たちの前で演奏する不安は、いつまでたっても拭えませんでした。
鈴木先生のスタジオでのレッスンは、マスタークラス形式で、順番はランダムでした。レッスンは、各自の課題に応じて、いくらでも長く続けられました。すべてのレッスンは、何らかの形の調性から始まります。私の最初の4ヵ月は、D線の開放弦で弓の持ち方と弓と弦をつなぐアプローチの形を作り直すことに費やされました。毎週のマンデイ・コンサートで皆の演奏を聴いた私の第一印象は、皆がその音色を持っているということでした。ウィリアム・スター(編集部註:アメリカスズキ協会初代会長)が「彩の響く音色」と呼んだ音色は、スズキ・テンチルドレンのコンサートを初めて聴いた聴衆の耳と関心を強く惹きつけたものと同じでした。
鈴木先生は、どうすればその音色を出せるのか、誰に対しても容赦なく追求されていました。そのうちに、技術的に優れた研究生とそうでない研究生がいることに気づくようになりましたが、卒業を控えたある研究生に対する鈴木先生の言葉をはっきりと覚えています。
「彼女は音色を理解している。彼女は生徒をうまく教えることができるだろう」「音色には生きた魂が宿っている 」という鈴木先生の強い信念は、徐々に私たちにもよく知られるようになっていました。そして、鈴木先生は実際に、私たち全員が、自分の演奏においてどのようにこれを行なうべきか、また生徒たちにどのようにそれを教えるべきかを理解しなければならないことを教えてくださいました。つまり、人間としての魂と魂がつながることができることの大切さを説かれていました。他者に変化をもたらすためには、私たち自身がそれができなければなりません。
毎週毎週、私の短いレッスンの中で、鈴木先生は何を求めているのかを聴覚的にも身体的にも示してくださいました。私がD線の開放弦を弾いた後、弓の持ち方のバランスを取るのに苦労しているのを何度指摘されたでしょうか。「ダメです。もう一度」。鈴木先生が弾き、私が弾きます。「いや、こっちの方がいい」。そして最後に「もっと勉強してください」。そんな調子でした。実は、最初の数ヵ月間、鈴木先生に対する激しい苛立ちがありました。率直に言いますと、時には怒りの感情もありました。私の弓とヴァイオリンが鈴木先生が求める音色を表現するために必要な物理的なニュアンスを理解しようとしたのですが、なかなかできなかったことが思い出されます。鈴木先生は私の気持ちを感じ取られたかどうか、私にはよくわかりません。しかしある日、特に激しいセッションの後、鈴木先生は「あなたがヴァイオリンを弾くのではありません!ヴァイオリンを弾くのは弓です。弓がヴァイオリンを弾くのです」と言われました。これは、「あなたは、弓が本来やることに対して手伝いすぎです 」ということだったのです。
しかし、ついに求めていた音色を手にすることができました。私はその変化を実際に感じることができました。頻繁に繰り返されたマンデイ・コンサートの 「ラ・フォリア 」の演奏中、私の身体と楽器の中でその音の変化が起こったのを感じたはっきりとした記憶が、今でも残っています。鈴木先生が少し微笑んでいるのが目の端に見えました。ホッとしました! そして、ヴァイオリンの真の音色を語ること、ヴァイオリンの一部である自分を感じることが、なんと自由なことなのだろうと思い至りました。
会館そのものが、才能教育の理念に対する献身的な気持ちで振動していました。まさに日本社会で起きているムーブメントがそこにありました。指導者からも、保護者からも、そして事務局のスタッフたちからも、使命感と目的意識が感じられました。もちろん、そのほとんどは鈴木先生の信念と、社会全体に変化をもたらそうという個人的なコミットメントから生まれたものです。彼は自身の環境の産物である一方、形成期には海外におられました。その経験は、世界に対する彼の考えを形成する上で大きな影響を与えました。自分の国で起きた大惨事を目の当たりにされ、人々の心を育てるより良い方法を生み出すという使命に駆り立てられたのです。
鈴木先生は、親や指導者でいっぱいのコンサートや会議の場で、聴衆に、子どもたちと自分自身のために「もっと良いことをするように」と諭されました。レッスンでは、私たち一人ひとりにエネルギーを注がれ、卒業式では、一人ひとりが鈴木先生に目的を捧げることを暗唱するよう求められました。しかし、彼がその遺産をすべての人々に与えてくださったことを、忘れないでください。スズキ・メソードは、私たち自身の中に存在する以外、誰のものでもありません。私たちが世の中を動かしていくために、私たちにさらなる力を与えてくれるのは、この運動によってもたらされる集合的なエネルギーです。このエネルギーは、生徒や家族を私たちが指導する際に、そして同僚との個人的および職業上の関係において、発揮されます。
私は生徒からのプレゼントで、ジョン・F・ケネディ大統領の言葉を記した冷蔵庫のマグネットを持っています。そこには「一人の人間が変化をもたらすことができるのだから、誰もが挑戦すべきなのだ」と書かれています。現在の世界情勢において、私たちはそれが善にもなり、残念ながら悪にもなることを目の当たりにすることができます。確かに鈴木先生は、善のために何が起こりうるかを示す最も明確な例でした。
最後に、鈴木先生が私に求めていることを理解するだけでなく、私が理解すべきことを実際に示すことができるよう、レッスンで奮闘したときの思い出をもうひとつ紹介しましょう。鈴木先生が繰り返し例を示され、それが終わると、私は 「はい、わかっています 」と言いました。鈴木先生は私の顔をまっすぐ見て、はっきりとこう言った。「そうしてください!」
そして、献身、気遣い、共感、発見における興奮、自分自身だけでなく他者の達成感、芸術の表現における美しさ、達成の可能性が広がり続けることへの確信……これらの資質は、このムーブメントに携わる私たちだけのものではなく、欠くことのできない不可欠なものです。
私たちはそのことを忘れてはなりません。一生続く経験と考察を共有する機会を与えてくれて、本当にありがとうございます。そして、私に皆さんとの居場所を与えてくださったことに心から感謝します。
アレン・リーブ