ヴァイオリニストの服部豊子さんの自伝「いつも心に音楽を」には、
鈴木鎮一先生との交流の様子も描かれています。
戦前から戦後という激動の時代を音楽とともに生きた世界的ヴァイオリニストの一人、服部豊子さんは、同じ頃に活躍された諏訪根自子さんや巌本真理さんと並ぶ「三大美人ヴァイオリニスト」のお一人でした。
戦争の体験とその後の音楽活動、メニューインや小澤征爾などの名演奏家・名指揮者との親交、そして、香淳皇后への御進講、ウィーンへの移住など、日本と音楽の都ウィーンとの架け橋となった彼女の活動を貴重な写真資料とともに紹介されたのが、この春、出版された「いつも心に音楽を」〜ヴァイオリニスト服部豊子自伝(勉誠出版 3,500円+税)です。
編集に協力されたオーストリア ・ シュタイレック城美術館・文書館主任研究員の宮田奈奈さんからのメッセージです。
「この服部さんのご著書では、戦中・戦後の日本で受けた教育やヴァイオリニストとして演奏活動に従事された半生と、ウィーン移住後のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との交流やロンドンを拠点とするHattori Foundation for Music and the Artsなどの活動を通じた若手演奏家の育成、および日本・オーストリア関係の文化交流促進に勤しむ半生が綴られております。
様々な音楽家との交流や自ら経験された時勢が詳細に綴られたことで、とりわけ戦中・戦後の日本での日本の演奏家による西洋音楽との取り組みを伝える貴重な記録となりました」
とのことです。
とりわけ鈴木鎮一先生との交流については、とても貴重なエピソードが綴られていて、大変興味深い内容となっています。目次をご覧いただきながら、その触りを紹介します。
目次
第1章 私の家族
1 祖父母、父母について
父と母のきょうだい
2 朝鮮京城時代
父の朝鮮赴任の事情
勝ち気な「とんたん」
松峴洞の社宅に移る
西大門小学校へ入学
京城にての生活
クラシック音楽と日本舞踊
京城師範付属小学校に転入学
遥かなる京城
父の死
いま思う父のこと
3 東京での暮らし
遠距離通学
ヴァイオリンとの出会い
バレエ
私の自転車修業
和光学園での楽しかった日々
女子学院入学
読書と西洋志向
東京弦楽団に入団
→「東京弦楽団に入団」の部分で、鈴木鎮一先生の指揮する東京弦楽団に鈴木先生から誘われたことが書かれています。そして放送中の朝ドラ「エール」でも舞台になった帝国音楽学校の練習所に行き、第一ヴァイオリンのメンバーとして参加。14歳でありながらプロ奏者たちとともにアンサンブルの貴重な体験を積まれた様子が分かります。また、練習の帰り道の電車の中で、鈴木先生から「人間は誰でも子どもの時、親が何遍も何遍も話して教えることによって、たくさんの言葉を自然に覚えて話せるようになる。この人間の能力は他のこと、例えば音楽では楽器をそうすることなどにもあてはまることであって、自然の法則に合ったやり方で子どもに教えて練習を繰り返し重ねれば、誰でも楽器を自由に弾くことができるようになるのだ。このことを自分は子どもを集めて実践して証明してみせる、と熱心におっしゃっていた。事実、戦後に実現されて、何百人もの子どもたちがヴァイオリンを弾くようになり、この教育法はスズキ・メソードとして世界に広がり、特にアメリカで多く採用され、実践された」というエピソードが綴られているのです。まさに才能教育(スズキ・メソード)の理念を戦前から、鈴木先生が着々と構想されておられたことを表しています。
第2章 太平洋戦争と音楽活動
1 太平洋戦争が始まる
1941年12月8日 日米開戦
日本音楽コンクール出場
様々な人の応援
戦時中の音楽
齋藤秀雄氏との出会い
深夜に聴いた《死と乙女》
敗戦をつげる玉音放送
2 戦後
戦後の風景
戦後の演奏活動
東京クワルテット
ソロ・リサイタル
姉美代子の病死
室内楽かソロ活動か
モギレフスキー先生の教育
音楽生活の刷新
メニューインの来日、モギレフスキーの死
女子学院でのコンサート
伯父夫妻の官邸に滞在
初めての生徒ホリデン君
ガリアーノを手に入れる
中村琢二さん夫妻のこと
ヨーロッパで勉強したい
魚住マネージャーのバックアップ
「モギレフスキー先生の教育」のところでは、服部豊子さんが、最も多く影響を受けた先生としてモギレフスキー先生を挙げておられます。鈴木先生の帝国音楽学校でも活躍された先生で、鈴木先生がモギレフスキー先生のことを「あの時代、掃きだめに鶴が降りてきたようなものだ」と評されたというエピソードも紹介されています。そして、印象的なレッスンの曲としてサン=サーンス作曲のヴァイオリン協奏曲第3番も紹介されています。この楽譜が、この著作の表紙を飾っていることからも、大きな意味のある曲であることが伝わってきます。
3 記憶に残る音楽家たち
忘れがたいピアニストたち
忘れがたいヴァイオリニストたち
日本の音楽界に貢献した外国人音楽家たち
齋藤秀雄氏と桐朋学園音楽科の誕生
第3章 ヨーロッパへの音楽留学と新たな生活
1 ヨーロッパへの旅立ち
出発の日
コペンハーゲン
ストックホルム
西ベルリン
ヨーロッパ各地への旅
2 ウィーンでの留学生活
いよいよウィーンへ到着
リカルド・オドノポソフ教授
修道院でのクリスマス
ヴァレス夫人ことムッティーとの暮らし
EXPO
ザルツブルク・ニース夏期講習会参加
ウィーンの舞踏会
ウィーン滞在の日本人とオーストリア人の友人たち
田中路子、デ・コーヴァ夫妻の思い出
ヨーロッパでのコンサート活動
ウィーンで聴いたコンサート
ヴァイオリンのヴィルティオーゾたち
自動車で六千キロの夏
私のウィーン留学三年間について
帰国
3 再び日本で
新たな生活のはじまり ― 家の整理
帰国後のコンサート
教員として(桐朋教授・藝大講師)
成三郎との出会い
結婚と住まい
光一郎誕生
義父との別れ
香淳皇后の思い出
成三郎とのヨーロッパ旅行
那須御用邸訪問
毎年の軽井沢
安川加壽子さんとの連続コンサート
安川加壽子さんの思い出
譲二誕生
家族で世界旅行
演奏活動
ストラディヴァリウスの旅
伯父田中耕太郎の思い出
メニューインのこと
二度のヨーロッパ旅行
ドイツ貴族との交遊
ウィーンへ
第4章 ウィーンでの暮らし
1 ウィーンでの生活
ウィーン生活のはじまり
貴族の城館で
新学期はじまる
アルフレート・シュタール氏のレッスン
息子たちの学校生活
プリンツ・オイゲン通りへの転居
新しい住まいと「暮らし」について
休暇の思い出
息子たちの成長
ホームコンサート
今上天皇陛下ウィーンご訪問の思い出
久しぶりのステージ
名演の思い出
夫との別れ
ドヴォルザークの《新世界より》
2 新たな始まり
墺日協会の活動
エプソン・クラシックCD収録
若手音楽家の育成に向けて
上皇上皇后両陛下ウィーンご訪問の思い出
コラムの執筆と自著の出版
ウィーン・フィルと私
楽友協会、コンツェルトハウスとオペラハウス
ウィーンでの国際交流
息子たちのその後