蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」
連載 第2回
関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回は、「第1章 父と母」の前半です。
第1章 父と母
1898年10月17日、鎮一は名古屋市東門前町に、後に世界最大のヴァイオリン工場の所有者となる政吉(1859-1944)の三男として生まれた。母は良(りょう)。
それは、日本が鎖国により国を閉じ、約260年にわたって太平の世を謳歌した江戸幕府の封建制度が終わりを告げ、中央集権国家と資本主義形成の起点となった大変革である明治維新が起きてから30年後のことである。それはまた、文明開化と呼ばれた、西洋文化が怒涛のごとく流入した時代でもあった。
父、政吉の生き方について、鎮一は自伝『歩いて来た道』*1で次のように述べている。
「父の誠実さに徹底した生き方を通じて、私は人生や、人間の生き方についてずいぶん大きな教えを父から受けました。今日私が父を尊敬する第一のものは、前述した二つの正しい父の考え(注:たゆみない研究心と誠実さ)と、その実践であったのです。」
つまり鎮一の性格と生き方には、政吉という人間の在り方が大きく影響している。その政吉はまた、ヴァイオリンという楽器に魅了されて生涯を送った人と言うことができる。従って、鎮一を語るためには、父政吉の生涯と人となりを知ることを避けては通れないのである。
父、政吉の出生とその後
1867年(慶応3年)に江戸幕府が朝廷に政権を返上し(大政奉還)、武家政治は終焉を迎える。尾張藩は名古屋藩となり、政吉は8歳から3年ほど漢学を学んだ後、同藩が新しく採用した英国式軍楽隊の鼓手を務めるが、鼓笛がラッパにとって代わったため半年で失職する。その後政吉は、同藩が新設した英語学校の給費生となって英語を学ぶが、2年半の後、1871年に廃藩置県が行なわれて、武家の秩禄が激減し、それ以降学費の払えなくなった政吉は退学を余儀なくされ、結局父正春の稼業となった三味線作りを手伝うことになった。*3
1873年、14歳の政吉は、伯父夫婦が営む東京浅草の塗り物商、飛騨屋に2年あまり奉公する。しかし伯父の逝去により閉店となり、結局名古屋の実家に戻った。父の正春は、秩祿奉還により、いくばくかの収入を得、それをもとに稼業としての三味線づくりを始めた。*4 政吉は、また、三味線と切り離せない長唄の練習にもいそしんだ。この年から30歳を過ぎるまで三味線職人として日々精進し、ついには名工と言われるまでになり、老舗の三味線商と専属契約を結ぶが、生活にゆとりはなく、その契約も不景気の波で破棄となり、ますます苦しいものとなって行った。*5
ヴァイオリンとの出逢い
1884年、政吉25歳のとき父正春が逝去するが、貧しい生活の中で遺産もなく、負債まで背負っていたという。しかし三味線づくりでは十分な収入を得ることは難しく、困窮の日々が続いた。そこで政吉は、当時かなり高い報酬が保証されていた小学校の唱歌教師になろうと思い立ったのである。*6
1868年、明治時代になると、あらゆることが刷新された日本では、1872年に「学制」が発布されて、唱歌は授業科目となるが、実際の実施に取りかかるのは1879年に音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり、後の東京音楽学校、現在の東京芸術大学)が設置されて後のことであった。1881年からは「小学唱歌集」が編纂されたが、教員不足、楽器不足の状態は続いていた。ピアノやオルガンの設備が困難な当時は、唱歌の伴奏には、携帯の便利なヴァイオリンが重宝されたのである。*7 そのような中、政吉は愛知県尋常師範学校の音楽教師で、唱歌教員の育成を行なっていた常川鐐之介の門を叩いたのだった。
それからひと月ほど経って、運命的な出逢いがあった。門人仲間の甘利鉄吉が携帯していたヴァイオリンを初めて目にしたのである。当時ヴァイオリンは、音楽取調掛にわずかにあった程度で、非常に貴重なものであった。*8 政吉は、甘利にヴァイオリンの貸与を求めるがなかなか承諾を得られず、最終的に、一晩だけ、甘利の就寝中にという条件で、ようやく了解を得て、徹夜で図面を写したのである。これが動機となって唱歌教師の道を断念し、ヴァイオリン製作に打ち込むことになった。そして1888年、遂に第1号ヴァイオリンが完成する。*9
鈴木鎮一は、斎藤秀雄との共著『室内楽』の中の、“日本ヴァイオリン史”の章のヴァイオリン製作史の項で、名古屋に於ける製作者として政吉を紹介し、この時の様子と第1号のヴァイオリンについて以下のように述べている。*10
「名古屋唯一のヴァイオリンは実に貴重にて赤貧の一青年の研究に貸し与へらるべくもなく、ただ一夜十時から翌朝までのみ貸し与ふるとの許可を得て徹夜して図面を作り、ただその図面のみを頼りに全力を注いで制作した苦心の珍品である」
鎮一によれば、この第1号は、
「手本とすべき楽器をもたず楽器に対する知識もなく、ただ単に一夜づくりの見取り図を頼りに製作したるものなることが一見にして解る」
ものであったが、
「第三番目製作のヴァイオリンが今猶お名古屋に保存されているけれども、第一番目と比較すれば非常なる進歩をして居り音も最初のヴァイオリンの倍位いの音量がある」
とのことである。政吉がいかに研究熱心であったかを物語るものであろう。
その当時は数人の職工と小さな店構えで細々と製作を行なっていたが、食べるものすら倹約せざるを得ない状態だった。しかし職工の賃金や仕入れの材料の支払いを延滞することは決してなかったという。そして良いアイデアが浮かべば、夜中でも工場に行って製作するという熱心さで、良質な製品の製作が可能になり、次第に規模も拡大して行くのである。*11
その頃の出来事で、政吉が、『中京実業家出世物語』の著者、赤壁紅堂に、「どうしても書いて頂きたい」と語った美談がある。*12
1889年頃、林という人物が政吉に出資を申し出たが、慎重な政吉は、ヴァイオリンの製造はまだ借財の返済を保証できる状態ではない、と、一旦は辞退する。しかし林が決して出資の中止や返済を迫らないと言うので、数十円単位で借金を重ねていくことになった。しかし出資額が最終的に500円ほどになると、林は政吉に、「鈴木ヴァイオリンではなく、林ヴァイオリンにしてくれないか」と要求したのである。もとより政吉がこれを了承できるはずもなく、それを伝えると、林は突然出資を取りやめ、返済を求めた。
このときの悲嘆は例えようのないものだったという。そして職工全員を解雇し、ひとり工場にこもっていた。すると職人の頭(かしら)株の二人の人物が政吉のもとに現れてこう言ったのである。「ヴァイオリン製造という事業がようやく日の目を見た今、止めるという理由がわかりません。貴方の本心とは思えない。我々は職工一同の総代として、恩人のお力になるために来ました。3年くらいかかればこの有望な事業を見捨てないですむでしょう。そのくらいの辛抱は、恩ある主人のために皆でできるでしょう」
政吉は、「その志は死んでも忘れないが、職工から賃金を借りるような申し訳ないことはできない」と何度辞退しても、職工たちの意思は固かった。結局その好意を受け入れて、職工たちには3か月間無賃金で働いてもらって、自転車操業を続ける。そしてその結果、半年たった頃には、職工からの借金もすべて清算し、賃金を支払うことができるようになったのである。
政吉は、涙ながらにこの出来事を語り、こう述べたという。
「この時ほど苦しんだこともなく、またこの時ほど人の情のうるわしさに感動したこともありません。全くこの時は職工の美挙によって助けられたのです。その職工の善行を表彰する意味で姓名だけでも記して置いて頂きたい」と述べて、7名の実名を挙げている。
*1.『歩いて来た道』 鈴木鎮一 (1960) 音楽の友社 p. 40
*2.『中京実業家出世物語』 赤壁紅堂(あかかべこうどう) (1926) 早川文書事務所 p.72-73
*3.『提琴有情-日本のヴァイオリン音楽史』 松本善三 (1995) レッスンの友社 p.22
*4.前掲書『中京実業家出世物語』 p.73
*5.『日本のヴァイオリン王-鈴木政吉の生涯と幻の名器』 井上さつき (2014) 中央公論新社 p.32
*6.『名古屋百紳士』 馬場籍生 (1917) 名古屋百紳士発行所 p.8
*7.『明治中期から大正中期の日本における唱歌教育方法確立過程について』 鈴木治 学位論文 (2005) p.16-18
*8.前掲書『中京実業家出世物語』 p.75
*9.『室内楽』 斎藤秀雄・鈴木鎮一共著 (1932) 文芸春秋社 p.108
*10.前掲書『室内楽』 p.108
*11.前掲書『名古屋百紳士』 p.8-9
*12.前掲書『中京実業家出世物語』 p.82-87
蔵持典与先生の略歴