蔵持典与先生による「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」
連載 第7回

 
 関東地区ヴァイオリン科指導者の蔵持典与(くらもち ふみよ)先生の著作「鈴木鎮一先生の生涯と才能教育運動の歴史」の英訳版(翻訳:リリー・セルデン)が、ISA(国際スズキ協会)の公式Webサイトで紹介されました。その様子は、以下の記事でご覧いただけます。
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 マンスリースズキでは、蔵持先生のご快諾をいただき、その著作を日本語で連載していきます。今回は、「第2章 父と母」の2回目です。


 

第2章 (2)

 

3.   運命の出逢い

 

 20歳になった頃、軽い呼吸器疾患にかかり、療養のため3ヵ月間、静岡市興津(おきつ)に滞在し、たまたま同宿していた北海道根室の実業家、柳田一郎(1887年根室生まれ)と知り合い、家族とも親しくなった。

 翌年、柳田の学友だった徳川義親侯爵が北千島の占守島(しゅむしゅとう)へ生物学研究をかねた探検旅行をすることになり、柳田の紹介で、鎮一も同行することになった。19
 
 その後、徳川義親は、鎮一の生涯において非常に大きな影響を及ぼした。またそれだけでなく、鎮一の理想を実現に導く上でも、長年にわたって鎮一の支援を続けた。ここでその人物像を紹介したい。
 
徳川義親
 

ヴァルトラウト夫人と徳川義親侯爵

 徳川義親(1886-1976)は、約260年続いた徳川幕府の将軍家を補佐し、また跡継ぎのない場合には将軍の位を継ぐ、藩の中でも最高位の御三家のひとつ、尾張藩19代当主で、明治維新後に華族となり侯爵の爵位を与えられ、最後の殿様と呼ばれた人物である。筆者も一度だけ遭遇する機会があったが、痩躯ながら豪胆かつ気品あふれる印象の人物だった。

 義親は徳川家に伝わる礼儀作法を幼少から身に着け、東京大学の国史科を卒業後に理科で生物学を修め、芸術にも造詣が深く、政治にも強い関心をもっていた。理科を卒業した年には自宅に生物学研究室をつくり、後に荏原(えばら)郡(旧東京市近郊)に研究所を建設した。20
 
 また、尾張藩(注:後に名古屋市を含む愛知県となる)は豊かな山林資源を有し、その管理運営を江戸時代から続けており、義親は、1923年に徳川林政研究所を開設し、同施設は現代に至っている。21
 
 彼は狩猟にも長けていて、旧領民たちが開拓民となっていた北海道では12頭も熊を狩ったという。その後マレーでは、同地のサルタンと虎狩りを行ない、マレー諸国との親善にも寄与した。それで「虎狩りの殿様」とも呼ばれていたという。英語、ドイツ語、フランス語の他にマレー語も修めていた。22
 
 鎮一は、前述の柳田一郎からこの徳川侯爵に紹介されて、翌年挨拶のために上京して初めてまみえることになるが、この邂逅こそが、鎮一の後の人生を大きく変える転機となったのである。23
 
北千島探検の旅
 
 1919年、徳川侯爵は、前述の柳田一郎や自身の妻と数人の親族に加え、ピアニストの幸田延(通称:延子)、鎮一、生物学研究所の所員なども含めて総勢13人で、約1ヵ月の船旅に出発した。船はもともと漁場に物資を運ぶ貨物船で、第一の目的は北千島の生物の採集だった。
 
 一行は、まず徳川家の別荘がある八雲という村に向かった。それは、明治になって徳川家の藩士が開拓した村であり、「殿様ご一行」は盛大な歓迎を受けた。だがその乗り物はというと、馬に引かれた大八車(木製の荷車)で、最敬礼で居並ぶ旧藩士たちに見送られて、一行はしずしずと徳川別邸に向かったのである。24
 
 余談ではあるが、後に義親がヨーロッパ各地を旅行した際、スイスのベルン(注:「熊」を意味する)を訪れたときにいろいろな熊の彫刻を見て、それが八雲の開拓民の農閑期の副業に良いと思い、何点かを買い求めて帰り、土産物として熊の彫り物の製作を奨励した。それが今では北海道の特産物となっている。25
 
 次には柳田邸のある根室に立ち寄り、それからいよいよ北千島へと向かった。「沈み込むような濃い青」に広がる海と、「洗われたような」空のコバルトブルーが鎮一の目に染みた。オットセイやクジラにも遭遇する。島々を巡りながら、一行は植物の採集や分類を行なっていたが、鎮一と幸田延はこれといって為すこともなく、孤島の美しい花畑に目を奪われていたのだった。
 
 占守島の北端を歩いていたときのこと、海岸から切り立った絶壁にかたまって生える、非常に珍しい苔をみつける。徳川生物研究所のひとりが、どうしてもその苔をとりたい、という。そこで、学生時代に野球のピッチャーの経験があった鎮一は、採集用の小さなスコップを手にして、「まあ私に任せてください。・・・あの苔をとってみせます」と豪語したのである。
 
 狙いはたがわずスコップは苔のところにうまく刺さった。ところが、スコップはそのまま落ちてこない。内心のあせりを隠して、鎮一は落ち着いた様子で「仕上げを見てください」と、もう一言。実は必死の思いで、今度は石を投げた。すると幸運にも、その石はスコップに当たり、苔の採取に成功したのである。しかし、鎮一は実はこのとき、「もう二度とこんなことはやるまい」と心に誓ったのだった。26
 
 一行は、ひと月も寝食をともにして、家族のように親しい間柄になって行った。貨物船とはいえ、内部にはサロンもあり、鎮一は、幸田延の伴奏でヴァイオリンを披露し、「珍しい土地への旅で、実に楽しい」経験をしたのである。27
 
 その演奏を聴き、徳川侯爵は鎮一に正式に音楽を勉強することを勧め、延も、鎮一にはそれだけのものがあるからぜひそうすべきだと断言し、妹の安藤幸への紹介を約束したのであった。28
 
ここで、鎮一のヴァイオリンの伴奏を務め、正式な音楽の勉強を強く勧めた幸田延(1870-1946)について、当時の日本の音楽事情を知るためにも、少し述べておきたい。
 
 延は鎮一の父、政吉ともつながりがあり、その後鎮一が徳川侯爵にヴァイオリンの学習を勧められて師と仰ぐことになる、安藤幸の姉である。
 
幸田延
 

幸田延(国立国会図書館蔵)

 幸田延(こうだのぶ)はピアニストとして知られているが、日本で初めてソナタ形式に則った『ヴァイオリンソナタ ニ短調』を発表した作曲家でもあり、ヴァイオリニストでもあった。

 明治維新を経て微禄の官吏となった幸田家では、子女の教育に全力を尽くした。そして後に、長男は相模紡績の社長、次男成忠(しげただ)は、郡司姓を名乗り、海軍軍人となって北方開拓を志し、北千島占守島の上陸を果たした。延が前述の北千島探検旅行に参加したのは、次兄郡司成忠を偲び、ゆかりの地を訪れたいと思ったからである。四男の成行(しげゆき)は、『五重の塔』などで知られる明治時代を代表する作家の幸田露伴であり、五男成友(しげとも)は歴史学者として大成した。他の兄と弟は夭逝している。8歳下の幸(こう、1878-1963)は、ベルリンに留学して当代随一のヴァイオリニストとなり、後に鎮一が師と仰ぐ音楽家となった。29
 
 延は、母から日本の伝統音楽の、長唄、三味線、琴の厳しい教育を受け、1882年に明治政府が設置した音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり、後の東京音楽学校、現、東京藝術大学)の伝習人となった。伝習人とは、邦楽経験のある洋楽研修者のことである。そこでピアノ、ヴァイオリン、声楽を学び、1885年、15歳で全科を修了して第1回卒業生となり、それから4年間助手として子弟の教育に携わった。30
 
 音楽取調掛は1887年、東京音楽学校となり、音楽の専門教育機関となった。そこで招聘されたのが、アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner1824-1896)の弟子であり、ポーランド生まれのオーストリア人、ルドルフ・ディ-トリヒ(Rudolf Dittrich 1861-1919)である。彼の専門はオルガンだったが、ピアノもヴァイオリンも弾きこなし、管弦楽法にも通じていて、延にヴァイオリンを指導してその優秀さに注目するが、6年後日清戦争が始まる頃、帰国を余儀なくされた。31
 
 1889年、大日本帝国憲法が発布されてまもなく、19歳の延は、第1回文部省音楽留学生としてボストンに向けて出港し、ニューイングランド大学で、ヨゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim 1831-1907)の弟子、エミール・マール(Emil Mahr 1851-1914)のもとでヴァイオリンを学び、その傍らカール・フェル(不明)についてピアノも学んだ。翌年いったん帰国した後、今度はウィーンに向けて再度旅立ったが、そこは、ブルックナー、シュトラウス2世(Johann Strauss II 1825-1899)、ブラームス(Johannes Brahms 1833-1897)などが健在する音楽の都だった。32
 
 延はウィーン音楽院に入学し、院長のヨゼフ・ヘルメスベルガー1世(Joseph Hellmesberger 1828-1893)の息子、ヨゼフ・ヘルメスベルガー2世(Joseph Hellmesberger Jr. 1855-1907)にヴァイオリンを師事した。年代は下るが、その同窓にクライスラー(Fritz Kreisler 1875-1962)やジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco 1881-1955)もいる。また、フレデリック・ジンガー(不明)にピアノを、ロベルト・フックス(Robert Fuchs 1847-1927)に対位法と作曲法を学んだ。成績は極めて優秀で、延を可愛がり、コーラス学習の場も提供していたローザ・フォン・ゲルグ夫人(不明)から、名器アマティ(Amati)を寄贈されたが、後に日本国内での状態維持が難しく、他の楽器との交換を依頼して、終生をともにする楽器を再度寄贈された。33
 
 25歳になった延は、6年ぶりに故国に戻り、東京音楽学校講堂において帰朝演奏会を催す。プログラムは洋楽のみならず邦楽も含まれ、ピアノ連弾、ヴァイオリン協奏曲、オルガン、室内楽、室内オーケストラ、リート、邦楽合奏など、多種にわたり、延もソリスト、室内楽奏者、声楽家、編曲者としても参画し、非常な好評を博した。34
 
 ウィーンから帰国後は、延はヴァイオリンに傾倒し、非公開ながら日本人として初めてバッハの「シャコンヌ」を演奏会で発表した。しかしその後、ニコライ・ルービンシュタイン(Nikolai Rubinshutein1835-1881)やチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky 1840-1893)にピアノを学んだにも拘わらず、哲学者として東京帝国大学に招かれたロシア人のラファエル・フォン・ケーベル博士(Rahal von Koeber 1848-1923)が東京音楽学校(現、東京藝術大学)の講師となり、そのもとでピアノを学ぶうちに、卓越した技量を認められ、延は同校ピアノ科の教授となった。ピアノの他に作曲と声楽も教えたが、弟子の中には作曲家の滝廉太郎(1879-1903)や声楽家の三浦環(1884-1946)がいた。
 
 しかし、延の名教授としての活躍は、長くは続かなかった。その頃優秀な音楽家の多くが女性であり、男性音楽家の不振とあいまって、教育者としての延の在り方が、なにかと取りざたされるようになった。35 ついには誤報も交えた誹謗中傷に発展し、1909年、依願休職を余儀なくされたのだった。そのわずか13日後、延はドイツに向けて旅立った。ベルリンやウィーンではかつての知人と旧交を温め、パリやロンドンにも訪れて心の傷を癒したのであった。36 ロンドン滞在中には、大英博覧会を訪れ、そこで、以前推薦状を書いたヴァイオリンの製作者、鈴木政吉と再会するのである。37
 
 翌年帰国してからは、「音楽の普及はまず家庭から」という信念をもって、個人教授所を開設した。また皇族にもピアノを教授し、大正天皇の即位大典のときには合唱付交響曲『大礼奉祝曲』を作曲して献上した。38
 
 1918年には自宅隣接して“洋洋楽堂”と命名された音楽堂を建て、1921年にはミッシャ・エルマンを、伴奏者アーサー・レッサ-とともに招いた。そのコンサートの聴衆の中には鎮一を含む鈴木クヮルテットのメンバーもいたのである。39
 
 その後、多くの弟子を育てた延は心臓を病み、1946年、紀尾井町の自宅で静かに世を去った。40


注
20 『徳川義親自伝 最後の殿様』徳川義親(1973)講談社 p. 24, 27, 53, 56
21 企画展「尾張藩と木曽山―徳川義親のまなざし」(2023)の記録より
22 『徳川義親自伝  最後の殿様』p. 66, 71, 74
23 『歩いて来た道』p. 49
24 『徳川義親自伝  最後の殿様』p.1-54
25 前掲書 p. 85
26 『歩いて来た道』p.54-59
27 前掲書 p. 52
28 『幸田姉妹  洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』萩谷由喜子(2003)ショパンp. 204-205
29 前掲書 p. 26-28
30 前掲書 p. 41-42, 61, 76-77, 80
31 前掲書 p. 84, 86-87
32 前掲書 p. 89, 92
33 前掲書 p. 92-94
34 前掲書 p. 96-101
35 前掲書 p. 161-164
36 前掲書 p. 179-180
37『日本のヴァイオリン王―鈴木政吉の生涯と幻の名器』井上さつき(2014)中央公論新社p.57
38 『幸田姉妹 洋楽黎明期を支えた幸田延と安藤幸』p.183, 186, 188
39 前掲書 p. 193-194
40 前掲書 p. 245


蔵持典与先生の略歴

 

 9歳から故、田沢毅氏にヴァイオリン指導を受ける。13歳から鈴木鎮一氏のプライベートクラスに在籍し、1964年第1回海外演奏旅行(テンチルドレンツアー)の一員として鈴木夫妻とともに渡米。早稲田大学在学中に同氏から直接スズキ・メソードの指導者認定を授与され、卒業後東京で指導を開始。1975年渡仏し、ジャン=ジャック・カントロフ氏の下で学ぶ。1977年帰国後、国内外の国際アカデミーで研鑽を積み、その後、江藤俊哉、豊田耕兒各氏に師事。1985年日本演奏連盟主催「えんれんコンサート」を経て、室内楽奏者としての活動を開始。同連盟の20周年記念フェスティバルに出演。現在スズキ・メソード指導者およびティーチャートレーナー、国際スズキ協会(ISA)ヴァイオリン科委員。