オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第15回です。第8章「松本での生活」の前半です。外国人が日本の習慣や文化に遭遇し、戸惑う数々のエピソードが綴られていきます。

第8章 松本での生活

 
 日本の部屋は藁で作られた畳が何帖分かで広さを表します。畳一畳はだいたい1m掛ける2mくらいの大きさになります。薄川沿いのアパートにあった私の部屋は畳6帖分でした。
 
 松本市の冬は寒さが厳しく、夜は水道の水を出しっぱなしにしておかないと水道管が凍ってしまうほどでした。一晩中水を出しっぱなしにしていても凍る時もあり、氷のつららが蛇口から出てきたこともありました。
 

(イメージ写真)

 私の部屋の蛇口が凍った場合は、面倒な一仕事を強いられました。まず台所用のスリッパをはいて台所のコンロにあるヤカンをつかみ、台所のドアのところまで行ったらスリッパを脱いで畳の敷いてある居間を通り抜け、廊下用のスリッパを履いて廊下を通り、階段を降りて玄関まで行き(トイレの前の廊下に薄く張った氷を蹴散らしながら)、スリッパを脱いで靴に履き替え、雪の積もった庭に出て、唯一水が出てくる水栓(なぜそこだけ凍らなかったかはわかりませんが、多分近くに温泉水が通っていたからではないかと思います)からヤカンに水を汲み、今までの行動の逆戻りです。靴を脱いでスリッパに履き替え、台所に戻ってヤカンにお湯を沸かして蛇口にお湯をかけます。水道管に張った氷が溶けるまで、この作業を繰り返します。

 研究生たち数人が、会館の向かいにある公園に大きな雪だるまを作ったことがありました。とてもよくできた雪だるまで、私は、後はヴァイオリンを乗せれば完璧だと思いました。会館の最上階の部屋にはケースにすら入っていない埃まみれになった安いヴァイオリンが床に転がっていました。私は上の部屋までヴァイオリンを取りに行きました。そしてそのヴァイオリンを雪だるまに乗せてあげました。これで完璧な雪だるまのでき上がりでした。
 
 翌朝、雪だるまを見に行くと鈴木先生がいらっしゃるのが見えました。先生はそこに立ち尽くし、雪だるまの足元に転がっているヴァイオリンの破片をみて困惑しておられるようでした。一晩のうちに、糊は剥がれてしまい、ヴァイオリンは70個の破片となって地面に散らばっていました。「誰がヴァイオリンを雪だるまに乗せたりしたのでしょう?」先生は明らかに小刻みに震えておられました。「私です」と答え、そのヴァイオリンは最上階の部屋にあった中国製の安物のヴァイオリン(※)ですと説明しました。「あー、そう」と納得していない様子で先生はお答えになりました。先生はどんなヴァイオリンだって雪の上でバラバラにされるような扱いを受けるいわれはないと思っておられるに違いありませんでした。
 
(※)生徒用の中国製の楽器は安くて質の劣る物でした。最近の物はでき栄えが良く、なおかつ値段も低めになっています。
 
 松本に滞在中のクリスマスのことです。私の住んでいたアパートの台所は最小限の設備しかありませんでしたが、二つあるガスコンロのうちの一つの上に置いた小さい持ち運びのできる金属製のオーブンでなんとかクリスマスケーキを焼くことができました。他の外国人の研究生たちも驚くような素晴らしい料理を作り出し、吹雪の中を息を切らせながら、クリスマスキャロルを歌いつつ、誰かのアパートに集まりました。そこでラジオから流れてくる日本語で歌われているヘンデルの「ハレルヤ」を聴きながら、私たちバージョンのクリスマスディナーを食べました。日本ではこの曲専用の合唱団もあるそうです。
 
 会館の近くには銭湯がありました。朝、自分が銭湯で使う物を持って出かければ帰りに銭湯に寄っていけます。もし忘れてしてまった場合は雪の中を歩いて取りに帰らなければなりません。
 
 銭湯では裸の体を見ただけで、誰がヴァイオリニストかわかります。ヴァイオリニストは左手は湯船につかないように上にあげています。熱いお湯の中で指先が柔らかくならないようにするためです。松本市の地元の女の人は気にしていない様子でした。明らかにこのちょっと変わった光景に慣れていたのでしょう。
 
 最初は銭湯に入ってすぐお金を払う番台にいる男の人に動揺しました。なんせ女湯が番台から丸見えなので、私たちが着替えているのもすべて見られてしまうのです。
「う~ん...」
 
 他の女の人たちは、まったく気にしていないようでした。同じ日にその番台の男の人が苦労しながら道を歩いているのを見たとき安心しました。彼はほとんど盲目に近いようで心配する必要はありませんでした。
 
 ワルトラウト夫人に銭湯で感じた不安事について話し、「番台の男の人が少なくとも近視のようだ」と言ったら、私の些細な心配事に顎が外れそうなほど大笑いをされ、ある松本のホテルの大浴場でお風呂からあがった時に温泉の栓を外して水を抜いてしまったアメリカ人女性の話をしてくれました(大浴場のお湯は近くから天然温泉を曳いていない限り温めるのにとても時間がかかります)。夫人はあまりの馬鹿馬鹿しさに話をしながら怒り始めてしまい、夫人をなだめるためにコーヒーにお誘いしたほどです。

翻訳:市村旬子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。