オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第16回です。第8章「松本での生活」の続きです。外国人が日本の習慣や文化に遭遇し、戸惑う数々のエピソードが綴られていきます。
第8章 松本での生活
私たちは炭の固形のインクと筆を使って、習字の稽古もしました。習字の先生が才能教育会館までいらして教えてくださいましたが、先生のご自宅で教えていただくこともありました。先生のお庭にはうっとりしてしまう小川が、竹の筒からクリスタルのように澄んだ小さい水溜まりに流れてきて、その水がまた竹の筒に流れて行き、美しく上品でした。外国人の生徒がそこで習字で使った筆の炭を洗い流そうとしたことがありましたが...。
薄川沿いの“田中アパート”に住んでいた私は、毎朝アパートから出ると右手に向かって歩き、真上に鯉のぼりが風になびいているコーラの自販機を過ぎて、会館に着きます。鯉のぼりとは勇敢に流れに逆らって滝を登っていくあの鯉から来ています。コーラの缶を見下ろしている勇敢な鯉をながめるというのは、なんだか文化的な矛盾を感じませんか。
左に曲がるとアパートの隣には舞踊学校があり、時々音楽が聴こえてきました。日本を去る直前のある朝、舞踊学校のある方向に歩いていき、外に立ててある看板を読んでみることにしました。そこでは茶道も教えていて、数ヵ月もこの教室の隣に住んでいたのに、(茶道を教わる)素晴らしい機会を逃してしまったことに気づきました。
才能教育研究会の重役の葬儀に参列したことがありました。鈴木夫人と他の女の方たちは黒い着物を着ていらっしゃいましたが、私は明らかに場違いな服装をしていました。日本では仏式で行なう葬儀が大半です。僧侶が読経と焼香が終わったと同時にその小さな焼香盆を私の前に持ってきたのです。どうして何も知らない外国人を一番手に選んだかは今でも謎です。私は手でお線香の煙をふわりと自分の方向に仰いだ後は、次の人がお焼香盆の前に跪けるように立ち上がったのか、お焼香盆を手渡ししたのかは覚えていませんが、どちらにしろ真逆の行動をとってしまいました。間違っていました!
その葬儀は盛大なもので、多くの参列者が故人を偲んでいました。すべての参列者に会葬御礼が渡されていたことに驚かされました。私は数本の缶ビールをいただき、若い研究生たちにあげました。
研究生のキャシーと私は小雪のちらつくある日、癒しの時間を求め、私たちのアパート前の川沿いにある神社に行きました。けれど運が悪いことに、その日は神主が車のお祓いをしていました。数十台のトラックや自動車が排気ガスをまき散らしながらクラクションを鳴らし出たり入ったりして、地面に積もった汚れのない美しい雪は見るも無残な状態になってしまいました。「まぁ、今日は行くべきではなかったわね」と鈴木夫人は言われました。
研究生のアン・ルイスは誰か英語のできる人と話したくて仕方ありませんでした。アンはお寺で買った金魚と話したりしていました。野良猫が家の中に忍び込んできてその金魚を食べてしまうまでは。アンはその猫を飼うことに決めて「プシーちゃん」と呼んでいました。プシーちゃんは近所でも有名な英語も日本語も理解する珍しい猫になりました。
プシーちゃんを飼い始めて2年目の冬のこと、プシーちゃんの体調がとても悪くなり、アンは凍り付く寒さの中、獣医を探し歩きました。鈴木先生がどこからともなくその苦境をきいてすぐに獣医を紹介してくださいました。そしてアンが診察料を支払おうとしたときには、すでに代金は支払われていました。
マージョリーが鈴木先生の指揮する研究生のオーケストラで「ヴェニスのリルト」(リルト=軽快さ)という曲のリハーサルをしていた時のことです。ピアニストが上手に弾けない部分があり、手こずっていました。マージョリーは会館でピアノも勉強していたので、ヴァイオリンを脇に置き、ピアニストにその部分を弾いてみせました。鈴木先生はとても喜び、その日本人のピアニストの女の子をマージョリーと入れ替えることにしました。マージョリーはとても決まりが悪い思いをしてしまいました。それに気づいた鈴木先生は自分の部屋へ行って贈り物を持ってきました。それは日本の国歌が流れる目覚まし時計でした。
ある研究生の卒業リサイタルのために私がオーケストラの指揮していた時のことです。彼女はヴァイオリン指導曲集の中の課題曲からバッハのブーレ、コレッリのラ・フォリア、ヴィヴァルディの協奏曲ト短調第2楽章、そしてフランクの壮大なヴァイオリンソナタを演奏したあと、最後にバッハの協奏曲イ短調で締めくくろうとしていました。
彼女は長いプログラムを集中して素晴らしい演奏していました。ところが最後のバッハの協奏曲の第2楽章の終盤に差し掛かった時、気が散ってしまい、音をたくさん外してしまいました。私は次の楽章に進める前に「大丈夫?」とささやきました。彼女は頷き、私たちは演奏を進めました。
彼女と一緒にその演奏の録画を何回も観て、その外れた音を大笑いしました。その数ヵ月後には、私自身の卒業リサイタルで同じ曲を弾くことになりました。演奏中にそのおかしな音になった箇所に近づいたとき、私の脳裏にはあの外れた音が浮かびその音につられそうになりました。それは酷く不愉快な感覚でしたが、演奏を聴くことの影響力についても深く学んだ瞬間でした。
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。