オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第18回です。今回から第10章「会館にて」が始まります。会館とは、もちろん松本の才能教育会館のこと。いろいろなエピソード満載ですので、お楽しみください!

第10章 会館にて

 

当時の才能教育会館

 才能教育会館(公益社団法人才能教育研究会 スズキ・メソード長野県松本市)には、いくつかのフロアがあります。最上階に屋根裏式のフロアがあり、3階にホール、2階にはスタジオ、1階には正面玄関があり、貯蔵庫のような地下には、お茶の香りが漂い、窓はなく、掃除婦のお婆さんとその夫が暮らしていました。お婆さんの夫についてはよくわかりませんが、お婆さんは自分自身を施設全体の運営者のように見ていたようです。彼女はしっかりした小柄な女性で、おそらく140cmほどの背丈でしょうか。鈴木先生が階段やらどこかにタバコの灰を落とそうものなら、とてつもなく不機嫌でした。彼女はすごい勢いで怒りながらスタジオに飛び込み、鈴木鎮一先生のレッスンを中断させることがありました。鈴木先生はいつも悔恨しているご様子で、「二度とそのようなだらしのないことはしない」と誓っておられました。
 
 トロンボーンも演奏するアメリカ人の研究生の1人が、夜に会館で練習していました。ある日、お婆さんは私に近寄り、不満を漏らしました。お婆さんは私が外国人の担当であると踏んでいたのです。お婆さんは夜な夜な騒音をたてるこの若い男への不服を唱えました。
 「あの子は、ブーブーうるさいわね」と、お婆さんは言いました。
  私は、「この騒音がヴァイオリンと同じように、西洋のオーケストラで使われる楽器の音だ」と言うと、お婆さんはひどく驚いていました。
 
 鈴木先生もその金管楽器の音はあまりお好きではありませんでした。先生と奥様は、私の娘のキャシーとアメリカの研究生の1人をロータリーファミリーナイト(ロータリークラブの家族向け晩餐会)に家族として連れて行かれました。夕食では、コース料理と一緒に、音楽のもてなしがありました。鈴木先生は琴の独奏や、三味線、尺八、キャシーの耳が聴こえなくなるほどの太鼓の演奏を楽しんでおられました。その後、金管楽器演奏のアナウンスがありました。
 「早く、早く、もう行きましょう」ドアめがけて突進する勢いで先生は仰いました。先生率いるそのファミリーメンバーは、荷物をもって慌ててついて行きました。
 
 研究生たちの練習部屋は、先生のスタジオの廊下沿いにありました。ヴァイオリンの学生が座るところには長いテーブルがあり、そこにはヴァイオリンケースが開いておかれ(譜面台として使うため)、それぞれにイヤホンがつけられた伴奏用のテープレコーダーが置いてありました。学生たちがどんな曲を演奏しているのか、どんな音をたてているのか、外からはまったく聴き分けられません。騒音はかなりのものだったです。誰かがたまたま窓を開けようものなら、近隣から苦情がありました(閉めきった夏の部屋がどんなに暑く、息苦しいか想像してみてください)。鈴木先生は、よくその部屋を覗き込まれては、学生たちががんばっていることに満足されているご様子でした。先生は、研究生たちが家でも練習して自分の音を聴いていると信じ込んでいらっしゃいました。私はたいてい自分のアパートで練習していました。
  
 シベリウス、ショーソン、モーツァルト、ベートーヴェンの音に囲まれながら、皆と一緒にそのテーブルにいたある日のこと、誰かが私に何を練習しているのか尋ねてきました。私は本の表紙に目をやり、「『コレルリ』よ」と答えました。
 ただ自分の音は聴こえていませんでした。私は指の準備運動をしていただけです・・・
 
  ある日、クライスラーの『ウィーン奇想曲』をその研究生の部屋で練習しようとしましたが、とてもじゃないけどできたものではありませんでした。周りにいたヴァイオリニストたちは、ヴァイオリン音楽で作曲家たちが最もよく使う調性の曲を演奏していました。シャープ(♯)が5個もある『ウィーン奇想曲』の調性はそこから遠く離れていて、まったく合いません。
 自分が鳴らそうとしている音がどうなっているかを判断するのはあまりに困難でした。私は諦めて、コーヒーを淹れました。
 
 鈴木先生を訪れる方々はしばしば、美しく包装された菓子折りを用意していました。先生は、いつもいただきもののお菓子を研究生の部屋にもってきてくださいました。
 
 レッスンでは、研究生は録音された伴奏と一緒に演奏するように、鈴木先生は決められました。録音された伴奏と一緒に演奏するという先生のアイデアは、他の演奏家に合わせ、タイミングの訓練をすることを学べるでしょうが、何人かの生徒にとっては、そのプロセスは逆に大きな足かせにもなりました。キャシーは卒業演奏のリサイタルのために、セザール・フランクの『ヴァイオリン・ソナタ』を準備していました。彼女は、すでに立派なピアニストとリハーサルしていて、2人は作品全体を通してテンポを決めていたので、キャシーは録音と一緒に演奏するつもりはなかったのです。そのことに対して、鈴木先生は、喜んでいらっしゃらなかったのです!それにもかかわらず、鈴木鎮一先生は、キャシーの最後の卒業演奏に興奮しておられました。私は概ね、J.S.バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』(ピアノ伴奏のない曲・・・)のレッスンを受けることを選びました。
 
 メンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』の録音された伴奏にぴったりと合わせることができず、涙している外国の研究生に出会いました。彼女はスタジオを出る際、恥ずかしそうに練習部屋の方へ向かいました。鈴木先生は、すぐ彼女のあとを追いかけられ、「本当によくやっていたよ」と伝えたあと、「さらに10,000回練習する必要があるね」と仰いました。
 
 練習しなくてもいい日があります。それはあなたが朝から晩までなにも食べない日です。
 急がず、休まず、諦めず 
 

訳者:フィッシャー洋子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。