オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第19回です。第10章「会館にて」の続きです。会館とは、もちろん松本の才能教育会館のこと。いろいろなエピソード満載ですので、お楽しみください!

第10章 会館にて(続き)

 
 才能教育研究会の幼稚園(才能教育幼児学園)は、かつては才能教育会館の1階の事務所の近くにありました。
 
 事務所では、英語を話す鈴木鎮一先生の秘書の川上充子さんが外国人にも目をかけてくださいました。2012年当時、充子さんはまだ才能教育研究会(TERI)におられ、相変わらず親切で明るい性格の方でした。幼児学園はずいぶん前に閉園しましたが、鈴木先生監修のもと、田中茂樹先生を初代園長として設立された学校法人才能教育学園白百合幼稚園(松本市)は現在も運営されています。
 

矢野美和先生(左)と園児たち

 幼児学園の3歳から6歳までの60人ほどのクラスを私は何時間も見学しましたが、先生方がどのようにこのような優れた成果を成し遂げられたのか、当初は理解できませんでした。子どもたちは、書道、俳句、算数、そして英会話を学んでいました。最も驚いた子どもたちの特技は、小さな跳び箱の競技でした。1973年の田中ビネー知能検査において、その子どもたちの平均IQは158だったといいます。
(編集部註:矢野先生の授業は、「魔術のごとく見事」と言われていました。「巧まずして、豊かな内容の教えが、指先から、眼から、体から、全身から溢れ出るのです」と表現されるほどでした)
 
 園児たちは、学期ごとに50〜60もの俳句を学び、俳人、小林一茶の数十の俳句を暗唱することができ、また自分自身で俳句の創作もしました。幼児学園の子どもたちは、英語で会話するために、通りにいる私のところによくやってきたものです。松本では他に誰もそうしたことをできる人はいませんでした!その子どもたちは、鈴木先生が出された結論の成果であったのです。
 
 一つの能力が立派に育つと、その能力が次の能力を生む、こうして次々と新しい能力が育ってゆく
     
 毎日の授業は、モーツァルトの素晴らしい傑作のひとつ、交響曲第40番のLPレコードで始まりました。園児たちは、ヴァイオリン、クラリネット、トランペットなどの楽器を演奏する真似をしながら、熱心に耳を傾けていました。ところが残念なことにそのレコードには傷があり、数小節をとばしてレコードの針が飛んでおりました。長年にわたり私は幼児学園を頻繁に訪れ、鈴木鎮一先生の音楽のインスティテュート(施設)で多くの園児たちがモーツァルトの交響曲の少し損傷したバージョンを習得しているのはいかがなものかと指摘しました。コンサートや他の録音でこの交響曲を聴いたとき、その子どもたちは皆、ひどく驚くことになるでしょう。私はそのクラスの先生に、このような危険について言及しなかったことを恥じています。
 
 鈴木先生は、子どもたちが勉強するための「おけいこテープ」を作られて、一茶の俳句を唱えておられます。今日では、幼稚園の園児と音楽学校の学生の双方が、最近CDとして発行された鈴木先生による一さの俳句とその解説を勉強しています。私の古いオーディオテープは良き昔の思い出が詰まっていたので、私はこのCDを得て喜んでいました。また私は、鈴木先生によるヴァイオリン練習テープ『私とおけいこ』のとても古いものを持っていますが、これまでのところ、これらはCDでの発行にいたっていません。(編集部註:現在ではCD化されています)
 
 鈴木先生は、一茶の俳句をどれほど愛したかを語られました。一茶はモーツァルトのように優しい心を持っていたに違いないと、そう見なしておられました。
 
 手叩て親の教ゆるをどり哉(てたたいて おやのおしえる おどりかな)一茶
 
 日曜日には、全国の上級生が鈴木先生のレッスンを受けるために会館へやってきていました。大半が10代あるいは20代前半で、並外れて優れた演奏をしていました。1回のレッスン費が1ヵ月分の授業料に相当する高価なレッスンであり、1ヵ月分にするのか僅か1日分にするのかという選択でもあったのです。それゆえ、日曜日に来る生徒たちは、鈴木先生のレッスンを1日中見学することで、その高価な授業料に相当する価値を得ていました。
 
 ある日曜日、私は早々に研究生の部屋へ行き、10数人のヴァイオリニストたちが各々の協奏曲を猛烈に弾き通しているのを見ました。受講生たちは鈴木先生のスタジオの中へ順次流れ込み、先生からコメントを頂戴すると、その知見に感心していました。1名を除いた全員が。
 
 その日が進むにつれても、この特別な少女はスタジオにまったく姿を現しませんでした。彼女は1日中練習をし、研究生の部屋で、ある協奏曲を弾いてはまた別の協奏曲と、鈴木先生に聴かせるべき協奏曲を決めていたのです。他の受講生たちがレッスン前の短い練習やお茶を飲むために研究生の部屋に出入りすると、皆、彼女の膨大なレパートリーに注目していました。
 
 鈴木先生も時折その廊下をさまよわれ(スリッパにタバコ)、ドア越しに部屋を覗き込まれると、その少女の練習に気を留められていらっしゃいました。ブルッフ、メンデルスゾーン、パガニーニ・・・先生は頷かれ、タバコを含まれると、スタジオへすり足で戻っていかれました。
 
 いよいよその日の最後のレッスンの時間になり、その少女は練習部屋からやってきました。彼女は感動させるべくブラームスを演奏する準備ができたわけです。
 
 鈴木先生は部屋の隅にある座り心地のよい椅子に身体をおろされ、タバコを取り出して火をお付けになると、何か思いついたかのように灰皿のわきに慎重にタバコをおかれ、立ち上がって部屋を出て行かれました。
 ブラームス・・・
 
 少したって先生はお菓子の袋をもって戻られ、見学者すべてに丁寧に、親切にお菓子を配られました(たびたびそうされていました)。そして自分の分のお菓子を一つとろうと考えつつ、おやめになりました。先生は椅子に戻られました。
 
  ブラームスの協奏曲を演奏している少女は、何度か顔を上げましたが、躊躇せず続けました。鈴木先生はタバコを嗜み、灰皿の上は灰だらけでした。灰が少し床に落ち、それを深刻にご覧になっていました。きっと掃除のお婆さんからのお叱りについて考えられておられたに違いありません。
 
 その協奏曲の楽章は終わりました。その生徒は何かを期待しているように見えました。鈴木先生は、まだタバコをくゆらせておられました。やがて立ち上がって、その若いヴァイオリニストに近づかれました。
 
 「弓を持つときは、小指はこうやってごらんなさい」と先生は仰って、弓を持って見せられました。
 
 鈴木先生は椅子に戻られ、再びタバコを嗜みはじめられました。それがこの非常に高価なレッスンの終わりでした。
 

訳者:フィッシャー洋子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。