オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第21回です。第10章「会館にて」の続きで、ロイス先生がご自身のオーストラリアの生徒10名と一緒に日本の夏期学校のコンサートに参加された時のエピソードなどが記されています。当時の写真も新たに送っていただきました。
第10章 会館にて(続き)〜
メイドインオーストラリアの日本語
私はメルボルンの10人の子どもたちと1人の先生を松本の夏期学校に連れて行きました。鈴木鎮一先生のレッスンを受けるために、夏期学校の1週間前に到着し、2週間(編集部註:当時は前期、後期あわせて2週間ありました)の夏期学校のクラスに参加し、その後に中島美子先生のレッスンを受けるために大阪へ向かいました。
(亡くなられた中島先生は、日本で最も優れたスズキ・メソードのヴァイオリン指導者の1人です。鈴木先生は、晩年になって肩を酷く痛められ演奏ができなくなり、講習会やワークショップで実演を行なう助手を必要とされました。その際の助手に抜擢されたのは渡辺百合子さんで、渡辺さんはかつての中島先生の生徒の1人でした)
鈴木先生のレッスンのテーマは、いつも音のクオリティについてでした。鈴木先生は、私のメルボルンの生徒たちに、弓のバランスや、よく響く音を出すことを教えてくださいました。
聴き分けよ、絃の響きを
メルボルンで私は、生徒たちが日本でレッスンを受けるときのために、用語の解説のテープを作っておきました(弓の持ち方、姿勢に注意するなど)。生徒たちは全員、そのテープをよく勉強したので、夏期学校のクラスではちゃんとレッスンが理解できました。
夏期学校では毎日、午後1時からコンサートがありました。日本の若い演奏者たちはいつも紺のズボン、あるいはスカートに白のトップスできちんとした身なりでした。鈴木先生は突然、私の10人の生徒と私の娘に演奏するように言われました。
翌日、1時5分前に鈴木先生が私のところにやって来られました。
「今日、」先生は、仰いました。
「オーストラリアの生徒たちはメヌエットを踊りましょう」
「は・はい、えっと・・・」私は息をのみました。
「明日とかでは?」
「では、明日、」先生は納得され、続けて、「オーストラリアの子どもたちはメヌエットを踊りましょう」と、仰いました。
夏の松本は恐ろしく蒸し暑いです。とても暖かく、風通しの悪い晩のこと、メルボルンの生徒たちと10人の日本人の生徒たちも加わって、私が考えたメヌエットのように見えるであろう踊りに懸命に取り組みました。森ゆう子先生の生徒二人が、私たちのためにベートーヴェンの『メヌエット ト長調』を演奏してくれることになりました。(森ゆう子先生も松本先生の教えを伝える素晴らしい先生でした)
翌日の1時5分前に、鈴木先生は私のところに来られて、そのメヌエットを速いスピードで踊って欲しいと仰いました。そしてピアノに座られ、猛スピードでベートーヴェンを弾きすすめられました。
「助けて!」実際、私はパニックになったのですが、冷静に、私の生徒たちはそんな速いスピードで踊ることはできないかもしれませんとお答えしました。私は他のある先生に、メヌエットは鈴木先生が弾かれていたような速いスピードではできなさそうだということを鈴木先生に話してもらうように頼んでおきました。
いよいよ私たちの公演の時がやってきました。鈴木鎮一先生がホールの裏手から呼び出されたとき、私たちは準備万端でした。
「メヌエットについて説明してください」
そうです!私は、ダンスの実演を見るのにワクワクしながら食い入るように観ているおよそ800人の日本の親子と先生たちを前にしているのでした。私はラッキーでした。前日にミュンヘンのスズキ・コンベンションの映像を見ていたのです。私は、シャンデリアを会場の方々に思い起こしてもらい、18世紀に着られていたであろう服装について説明しました。
「何世紀のことですか?」鈴木先生は後列から割り込まれました。
「18世紀です」私は答えました。
「ああ!」先生は大きな声で言われました。
「17世紀では、メヌエットは速かったのです」
私の表現や説明は“wig”という言葉に直面するまで、うまくいっていました。あれ、“wig”は日本語でなんだっけ?
「すみません」私はマイクを通して言いました。私はステージの脇に行って、先生の1人にその知らない言葉を説明しました。
「かぶりもの」彼女はささやきました。その言葉はちっとも聞き覚えがありませんでした。“wig”という言葉の日本語に自分は以前出くわしたことがあるはずでした。
でも私は気にせず、18世紀のシルクとレース、バックルシューズ、かぶりもの、シャンパンの説明を続けました。誰もが、西洋文化の歴史を知ることに魅せられ、夢中になって聞いてくれました。
私たちはメヌエットを踊りました。
数日後、私たちは博物館を訪れました。ガイドさんが私たちに、武士が身に着ける甲冑を見せてくれ、すべての部分の名前を言ってくれました。もうお分かりですね!私は夏期学校に参加した大勢の親子、先生方の全員に、メヌエットは侍が身に着けていたようなかぶりもので踊られていたと言ったのです。
“wig”とは、かつらでした。私はそれを知っていたのに!とはいえ、もし私がそう言ったとしても、聴衆は黒髪の日本型のかつらを思い描いたことでしょう。いずれにせよ、無謀なことだったのです。
それにしてもなぜ鈴木先生は私たちがメヌエットを踊ることができると思われたのかに気づくまでしばらく時間を要しました。私はメルボルンでいくつかのサマースクールを運営していましたが、そのうちの一つに、メヌエットの踊りを生徒に教えるダンスの専門家が呼ばれていました。その時、日本から中島美子先生と生徒たちも参加していました。中島先生らが、鈴木先生にそのオーストラリア人たちがこの踊りを披露したということを伝えたのは疑いないでしょう。
外国語で間違いを犯すのは容易いことです。紛れもなく、私はたくさんの間違いを犯し、またそのことにまったく気づきませんでした。たった1つの音のほんの僅かな変化が、文章に大きな違いをもたらします。私が、“kyūsai”の代わりに“kusai”と言ったときは、子どもの年齢の話ではなく、私は子どもが臭いかどうかお母さんに尋ねていたのです。そして、私が“konnyaku”の代わりに“konyoku”と言ったとき、立派で尊敬する中島美子先生に対して、紫がかった灰色の根菜のゼリー状の食べ物が好きかどうかでなく、男性と一緒に入浴することが好きかどうかを尋ねていたのです。(ちなみに、中島先生がメルボルンを訪問された際、昼食は何が食べたいか伺ったところ、先生は、“noodles”麺と“needles”針を間違えられました)
鈴木先生は、外国人が使う日本語の馴れ馴れしい言葉にとても忍耐強かったということは言っておかねばなりません。日本語の語彙は、丁寧さのレベルがいくつもあり、私たちは先生へ対する真の敬意を表す言葉を使うべきだったのです。結局のところ、その方は、鈴木先生(教師、師匠、教授)なのです。オーストラリアで日本語の勉強をしていた私ではありますが、実際にはカジュアルな日本語を話す若い大人の研究生たちとの付き合いや松本にあるお店の人たちなどと話すことから、たくさんの日本語を習得していったのです。後にメルボルンで、ある日本人の友人が、私が「松本の農家の人のように話す」と言いました。
日本語で、“Good morning”は 「おはよう」ですが、発音は「オハイオ」(アメリカのオハイオ州と同じ発音)のような感じです。外国人にとっては覚えやすいわけです。ある朝、鈴木先生は私に、1時間ほど前にあるアメリカ人のお客さんから挨拶されたと仰いました。
「アイオア、鈴木先生」と、その男の人は明るく言ったそうです(アイオア州と同じ発音)。
私は先生のいたずらっぽい表情を見ました。
「それで、なんと答えられたのですか?」と私は訊ねました。
先生はくすくす笑い、目をキラキラさせながら、
「あ!そりゃ私は礼儀正しいですから、『アイオア』ですよ」
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。