オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第23回です。第10章「会館にて」の続きで、鈴木先生のユニークなレッスンのエピソードに加えて、世界的なヴィオラ奏者のウィリアム・プリムローズとの交流などが記されています。
第10章 会館にて(続き)〜
鈴木先生のレッスン
鈴木先生のゲームの1つに、ヴァイオリン指導曲集第1巻から第10巻までの任意の曲の途中からいくつかの音をひろって演奏し、それを今度は私たちがその曲の最初から演奏しなくてはならないというものがありました。私たちはこれらの短いパッセージが含まれている曲を瞬時に探し出さなくてはならないのです。
鈴木先生は、才能教育会館にお客さんが来られた時、ご自身の教授法をお見せする際に時々このゲームを選ばれました。そういう時は、先生はホールを見まわし、モルモットとしてステージに誰を連れてくるか選ばれるのです。それがしばしば私や娘のキャシーだったのは、おそらく私たちのブロンドの髪は遠くからとても目立ったからではないでしょうか。
音楽家になるための匠(たくみ)は、迅速に考えることです。教師が生徒の中に育てようとすることは、この素早さであり、勘に基づいて行動する「捉える」能力なのです。
勘を育てる
稲妻をとらまへたがる子ども哉(いなづまを とらまえたがる こどもかな) 一茶
レッスン中の鈴木先生の頭の回転の速さと軽妙さは、研究生や子どもたちに油断を許しませんでした。
子どもたちは、楽しんでいるときに最も能力を伸ばす
楽しさとゲームは確かに子どもの注意を引き続けますが、それを観察していた教師たちの中には必ず、鈴木鎮一先生のレッスンの主要な目的は楽しさであると思ってしまうこともあります。でも、何かを達成できたときの喜びもまた楽しいのです!
鈴木先生が海外旅行から戻られた際、ピアノの生徒たちのコンサートを観たときの話をされ、演奏者全員の目は楽譜に釘付けで、誰も感受性豊かに弾いていなかったと仰いました。
「それはつまり」先生は言われました。「タイプライターです」
あるアメリカ人の先生は松本に1人の少年を連れて来ました。おそらく彼の息子だったと思います。14歳くらいの少年ギャングが、不機嫌そうにレッスンのためにスタジオへ入ってきました。彼は指導曲集の第2巻か3巻の曲を演奏しました。それは、ぎこちない、苦しい演奏でした。まとまりがなく、音が外れ、自信がなく、良い音で弾こうという気持ちが感じられないものでした。本当に酷かったのです! 鈴木先生は、その少年が演奏を始めた時、驚いたご様子でした。そして、椅子に深く座り、重々しく見つめておられました。
ルールとして、スズキの先生や親が生徒の演奏を聴いたときは、最初に必ず祝福し、褒めて、それから建設的な批評を述べることです。鈴木先生はこの気の毒な少年に一体何を言うことができるのかと私は思いました。
先生はタバコに見向きもせず、その演奏に茫然としておられました。その少年が演奏を終えた時、私たちの先生は即座に立ち上がられました。
「グッド!」先生は、晴れやかに、熱心に、こう言われました。「最後まで弾けたね!」
その少年の演奏はレッスンの終盤になるにつれて良くなり、どこかより嬉しそうに見えました。
生徒は先生より上手にならなければなりません、もしそうでなければ、それは先生のせいです。
ある研究生が、運弓がうまくコントロールできないでいました。
(弓は、演奏者の手や腕のどんな振動に対してとても敏感です)
「先生」彼は、言いました。
「僕の弓はいつも跳ねてしまいます」
鈴木先生は椅子から飛びあがられ、その若者の弓をとられると、棚の上に置かれました。「どれどれ」先生は、その弓を近くでしばらく眺められながら興奮して、仰いました。「見せてください、そんな素晴らしい弓を見せて・・・」
鈴木先生は、音の出だしのどんな些細なアクセントも嫌われました。「雑音が聴こえる!」と先生は訴えました。
私は実際にその「スタート」を教えています。管楽器の音の最初に舌で作られる“t”「トゥ」の音のようなものです。もちろん、すべての音でということではなく、その曲の解釈によります。先生はその音がお嫌いでした。
ウィリアムと鈴木先生は、ヴァイオリンの技術に関して議論されたことがあります。鈴木先生は、常に楽器を顎で持ち続けることを主張され、ウィリアムはそうする必要はないと主張していました。
実際には、それはいつも必要というわけではありませんが、本当に顎で持ち続ける必要がある時期にある初心者には、教えられなくてはなりません。左手のポジション移動のとき、どの弦でも低音(自分から腕が離れて伸ばされる)から、高音へのポジション(肩の方へ手を持ってくる)移動する時は、その動きは、自分の首にヴァイオリンを投げるような感じです。逆に戻る時は、ヴァイオリンを失うような感覚になります。それが、一時的に顎で楽器をおさえる時です。
彼らは議論を楽しみました。
ウィリアムの妻、ヒロコはスズキのヴァイオリン指導者であり、私の友だちでもありました。ニューサウスウェールズ州の音楽院で指導者養成ための研究会をヒロコさんが開催したときの彼女の言葉を覚えています。「まず小さな子どもたちを愛していなくてはなりません」
私は、私の卒業リサイタルでモーツァルトの『ヴァイオリンソナタ第34番変ロ長調K.378』も曲目に入れました、リサイタルの前日に一度も先生に演奏を聴いてもらっていなかったことに気が付きました。その日のレッスンでは、その第3楽章を演奏しようと思いました。
私のレッスンになったその日、スタジオにはアメリカ人の指導者たちの聴衆がいました。鈴木先生は、問題のパッセージの何小節か後に私を止めました。そして、柔軟なスピッカートを習得するため、段階を経て導いてくださいました。
「もう一度やってごらんなさい」先生は、言われました。
私は元々やりたかったように、そのパッセージを繰り返したのです。鈴木先生は、私が馴染み深いいつもの表情をされたあと、アメリカ人の見学者の方を向かれました。
「もう彼女はできていますね」先生は、仰いました。
そして、椅子に戻り、タバコを楽しまれました。
私は偶然、スピッカートの技術の教え方を実演する機会を与えてしまいましたが、そこにいた指導者たちが、私がやってみせたように、きっかり4分ほどでご自分の生徒たちもそれを習得する、とは思わなかったであろうことを期待しました。
鈴木鎮一先生は、私が今まで会ったヴァイオリニストの中で最も柔軟な指をお持ちでした。なぜこのような柔軟性をもっと頻繁に教示されなかったのか、理由は定かではありません。
私はしばしば鈴木先生がされたように学びましたが、必ずしも言葉に出しては言われませんでした。
ご高齢の割にはしなやかな指をもたれ、長い親指はまっすぐになるか、弓の毛から離れて湾曲していました。それは、鈴木先生が提唱され、また誰もが教えているものとは反対の方向です。だから、どのようにしてその指のとてつもない柔軟性をコントロールされていたのか私にはわかりません。自然の法則に逆らっているかのように私には見えたものです。
註)スコットランド出身のヴィオラ奏者(1904~1982)
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。