オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」の連載第27回。第12章「晩年」の章の後半です。鈴木先生のご逝去の一報を聞かれた時の思いについても書かれています。

第12章 晩年(後半)

 
 何年も前のこと、松本で、学習障害のある生徒を交えたグループレッスンを拝見したことがあります。先生が次に何を演奏するか言うたびに、その男の子はステージの前に出てきて、私を見下ろして、自分がその曲を知っているかを尋ねるのです。きっと、私の金髪が面白くて、私に声をかけたのでしょう。尋ねられるたびに「多分知ってると思うよ」と答えると、彼はグループに戻って嬉しそうに演奏しました。彼はかなりたくさんの曲を弾けるのですが、ただ曲名を覚えられないのです。1987年、ベルリンでチャイコフスキーの協奏曲を弾いていた一番上級のクラスの中に、彼がいるのに気がつきました。
 
 鈴木先生が仰っているように、母国語を話せる子どもは、楽器を弾けるようになります。実際、言葉が話せない子でもヴァイオリンを弾けるようになることを私は知りました。
 
 私は、こちらが言ったことだけを繰り返して言うこと(反響言語)だけができる生徒を何人か教えたことがあります。彼らは次の会話を続けたり、何を話すかを考えることはできません。これらの子どもたちは、CDの通りに弾くよう教えることはできますが、自分で感じるように工夫して弾くことはできません。
 
   でもそれこそが、究極的には音楽家が目指すところなのです。鈴木先生は研究生が自分自身のある種の勘や考えを示すようになると、とても興奮されました。
「ああ、分かってきたな!」
 私は、促されれば言葉を発するけれど会話能力はない生徒たちを教えたことがあります。彼らも弾けるようになるのです。音楽の理解は最小限度であっても、彼らのヴァイオリン技術は流れるようで、かなり正確でさえあります。そこには明らかに喜びがあるのです。
 
 再び日本を訪れた時、私はヘンデルの「ブーレ」を演奏する小さな子どもたちのクラスを教えていました。レッスンの中で、私は彼らに後ろを向かせ、私が弾いた音に倣って弾くように言いました。私は、徐々に「キラキラ星」のリズムから「ワルツィング・マチルダ」へと移行していきました。私はよくそれを楽しんでやります。その部屋におられたお母さんたちはこのオーストラリアの音楽を知っているようで、歌詞はどんなものかと尋ねられました。そこで私は歌詞を訳し始めました。
 
  「ある男が羊を盗んで水穴に飛び込むと幽霊に誘われて…」と語り始めるとお母さん方がとても困惑した顔をされはじめました。私は何がいけなかったのか、急に気づきました。
 
 「これはオーストラリアの国歌ではありませんよ。民謡です」と私が言うと、お母さん方は、安堵され、笑いながら頷いておられました…。
 
 鈴木先生は、さらにお年を召されると聴力が弱くなり、生徒にもっと大きな音を出すようにと言われるようになりました。私は先生がまだ良い音を聴き分けられる時に教えていただけて幸運だったと思いました。
 
 「私の耳に聴こえるように弾いてください」と先生は仰るようになりました。
そして研究生が発する音は押さえ気味で、感受性に欠けたものとなっていきました。次第に、先生が教えられる技法は、弓を逆さまにして大きな音を出す練習だけとなりました。
 
 メルボルンに戻り、鈴木先生ご夫妻がご出席されたコンサートで、私が大勢の子どもたちがリュリの「ガヴォット」を演奏するのを指揮した時のことです。出だしのアップビートの指揮を4分音符2つ振りで始めた時、伴奏者はその曲を倍の速さに取り違え、大急ぎで始まり、走り出してしまったのです。子どもたちは私ではなく、伴奏者に合わせていきました。
 
 私はとても恥ずかしく思いました。鈴木先生の前だったのですから! 私は同じ曲をもう1回弾くことを選びました(そこにいたメルボルンの先生方は私がやり直したことに仰天していました)。
 
 一人の教師が波のようにいる大勢の小さなヴァイオリニストを掻き分け、伴奏者のところへ行くと、今度は指揮を見て弾くようにと伝えてくれました。ではやり直し。同じことが起こりました。
 
 もちろん、子どもたちが2倍の速さで弾けるということは非常に興味深いことでした。鈴木先生は、目の前で起こっていることを、非常に楽しんでおられました。
 
 そのコンサートはダラス・ブルックス・ホールで行なわれたのですが、数年後に鈴木先生はそこの男性用トイレで滑って転倒され、左肩にひどくお怪我をされてしまいました。その頃にはもうかなりご高齢の先生にとって、滑ってお怪我されたことはヴァイオリンを弾いたり教えることに非常に大きな衝撃となりました。
 
 その後、アメリカ合衆国で何度か先生にお会いしました。先生は、依然気はしっかりしておられましたが、肩の状態は良くなかったようです。
 
 最後に鈴木先生にお会いしたのは1990年ごろです。その1、2年後に松本へ戻った娘が、「以前のようにはいかないようだが、先生はまだ教えておられる」と報告してくれました。シドニーの水島隆郎先生は、1990年代後半に先生を訪問された後「先生はほぼ休んでおられる」と教えてくれました。
 
 1998年1月26日、鈴木鎮一先生は99歳でお亡くなりになりました。
 
 その知らせを聞いた時、私は南ギップスランドの別荘にいました。とても暑い朝でした。電話に出ながら、私はガラスの扉越しに背の高い乾いた草々が風でなびいているのが見えました。山火事が起こりそうな天気で、私は友人の声に呼び覚まされました。彼女は、鈴木先生がお亡くなりになったと教えてくれました。
 
 それは、恐ろしい瞬間でした。
 
 私たち皆が心から愛した先生は、もうおられない。愛と真実、徳と美を求め続けられたその方は、もう私たちの元にはおられない。自分の人生を、クライスラーとカザルスの音を追求することに費やした先生は、もうお休みになられたのです。
 
 その後すぐ、メルボルンのある教師に「スズキトーン」の質は変わってしまうと思うかと尋ねられました。「もちろん音は変わります!」スズキの音と鈴木先生の音に対する影響力はいつまでも変わり続けます。より良い音を探求し続け、子どもたちにそれを伝えていくという使命こそが、鈴木鎮一先生が私たちに残してくださった贈り物なのです。
 
私は音への探求の旅を続けてきた一人の旅人でした・・・私の努力は私の心の能力の境界を拡げてくれました。

 
訳者:パタソン真理子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。