オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第3回です。今回は、第3章「歴史と環境」を掲載します。時代を超えた鈴木鎮一先生の姿が活写されています。
先月は、「第2章」を掲載しました。第4章以降は来月以降の掲載になります。
日本は、1600年初頭からほぼ外国と隔離された状態となり、外国人、特にキリスト教徒は厳しく国外へ追放されました。海外との接触は、ほとんど絶たれ、貿易は2世紀半もの間、閉ざされていました。 鈴木鎮一は、自著に書いているように「そうした文化の発達の歴史の外に孤立して、その恩恵を受ける機会を失った」国で生まれました。また同じ本で、西洋の楽器の歴史について、こう語られています。
・・・その羊腸の一絃に端を発し、長い文化の歴史をたどりながら、人間の生命を歌うヴァイオリンというものの生まれたその歩みのあとを思う。
(鈴木鎮一著「奏法の哲学」より)
鎮一は、1898年10月17日、鈴木政吉の九男四女の三番目として生まれました。両親は著名な武家の出で、母親は唄を学び、三味線を演奏する人でした。
武士とは、将軍に仕える、上級武士から足軽までの階級に分かれた世襲制の身分であり、これは当時の日本の政治体制によって定められたものでした。
1853年、ペリー提督の指揮のもと、アメリカ海軍が二艘の帆船と二艘の汽船を率いて横須賀市久里浜に来航します。日本との貿易と外交交渉を任されてきたペリーは、1854年に再び神奈川を訪れ、江戸幕府と和親条約を結ぶことに成功しました。
西洋でどれだけ文明が発展し、西洋の政治制度がどのようなものかを知ると、当時の日本人は大きく動揺しました。しかしながら、慣例を変えることにたけた日本人は、わずか17年の間に、将軍と武士の制度を廃止してしまいます。そして、国は西洋型の官僚制度である中央集権制度により統治されることとなり、後に、初代の伊藤博文首相と官僚による統治が始まったのです。
1871年、鎮一の祖父は武士の位を失い、12歳の政吉(鎮一の父)が武士として生きる道はなくなりました。1873年、政吉は三味線職人として父の元で働き始めました。その後、英語学校で2年間、英会話を学んだり、漆塗りを学びました。また、小学校の唱歌の教師としての訓練を受け始めたりしました。
慣習にならって一家の主人となり、家計を任されるようになると、政吉は三味線作りを始めました。1887年、政吉は当時は珍しかったヴァイオリンを知人から一夜だけ借りて、図面を取り、計測し、幾度となく試作を重ねました。そして1888年、日本製ヴァイオリンを世に生み出したのです。初めの頃、政吉はこのヴァイオリンを日本楽器に納めていましたが、1900年には名古屋に自社工場を設立します。そこではマンドリンやギターも製作されました。1910年には1年に65,800台ものヴァイオリンが作られるまでに工場は成長し、1930年までに、政吉は名古屋に三つの工場を建て、従業員は1,000人にまで上るようになりました。
育ち盛りの子どもたちにとって、工場は格好の遊び場でした。鈴木家の兄弟姉妹は、工場でヴァイオリンの部品を人形にみたてて遊んだそうです。こうしてヴァイオリンは、鎮一にとって子ども時代から慣れ親しんだ存在となりました。
政吉は、後の事業のために、鎮一を商業学校へ入学させます。商業学校を卒業し、工場で働き始めた鎮一は、輸出を手がけました。ある晩、ふと興味をそそられた鎮一は、エルマンが演奏するシューベルトのアヴェ・マリアのレコードとともに、ヴァイオリンを家に持ち帰りました。そして、自らヴァイオリンを学び始めたのです。鎮一が17歳の時のことでした。次第に鎮一は、「良いヴァイオリンを作るためには、ヴァイオリンを弾けるようにならねばならない」と思うようになりました。
その後、肺を悪くした鎮一は、転地療養のため静岡県に赴きます。そのことが、後に徳川侯爵と出会うきっかけになりました。この裕福な侯爵の勧めで、鎮一は東京にヴァイオリンを学びに行くことになるのでした。
当時の日本としては珍しいことに、東京で鎮一にヴァイオリンを教えたのは、安藤という女性の先生でした。彼女は、東京音楽学校で、オーストリアの音楽教師ルドルフ・ディットリヒから学んだ後、卒業後はベルリンで高名なヨアヒムに師事しています。
ヨアヒムは、模範を弾いてみせて、生徒の熱意を駆り立てつつ教えていく、という教え方をしたと言われています。彼は、ヴァイオリンの技術を言葉では説明することができなかったのだそうです。安藤幸は、一体どのようなレッスンを鎮一にしたのでしょうか。
さらに踏み込んだ徳川侯爵は、鎮一がドイツでヴァイオリンの勉強を続けることを勧めます。しかし鎮一の父親がこの考えに反対することは分かっていました。徳川侯爵は口実が必要だと言い、策を練りました。鎮一は父親に、侯爵の世界旅行のお供をすると申し出たのです。政吉はこの案に賛同し、15,000円を鎮一に渡し、快く送り出してくれました。その「世界旅行」はドイツで最後を迎えることとなりました。鎮一が23歳を迎えた年のことです。
二人のこの策に気づいていた安藤幸は、鎮一のために、ドイツのヴァイオリンの大家宛に紹介状を書いてくれました。けれども、鎮一は、自分の目で確かめて自らの師を決めることを望んでいました。
クリングラーは弟子を取らないと耳にした若かりし鎮一は、それでもクリングラーを訪ね、オーディションをしてくれないかと頼みます。もちろんのこと、クリングラーはこの若い日本人がどんなヴァイオリンの勉強をしてきたのか、興味をそそられました。鎮一はローデのコンチェルトを立派に演奏し、クリングラーの弟子となることを許されます。クリングラーの元で8年間過ごした鎮一は、ソナタとコンチェルトを4年間学び、次の4年間はクリングラーの専門分野である室内楽を学びました。
ベルリンに滞在中、鎮一には、友人であり保護者のような存在の教授がいました。ある時、その教授がベルリンを離れることになり、自分の友人に、世間知らずのこの日本の若者をよろしく頼むと託します。その友人とは、あのアルバート・アインシュタイン博士でした。アインシュタインは、ヴァイオリンとピアノをたしなむ人でもありました。
ドイツでの生活は鎮一にとって大きな衝撃でした。何と言っても、彼は幼児レベルのドイツ語しか話せなかったのです。
「言葉では苦労しました」と後に語っておられます。「人が何を言っているかも分からないし、自分が言いたいことをどう表現していいかも分からないのです。私は、学校ではできのいい方だったと思いますが、ドイツ語に関してはまったくの劣等生でした」
それでも鎮一は、ベルリン人の自宅で開かれるイブニング・コンサートにも出席するようになります。この種の娯楽は、当時、第一次大戦後の混沌から逃れようとするドイツ人にとても人気がありました。
ドイツでの勉強を終え、妻のワルトラウトとともにスイスへ移住することを考えていた鎮一は、母親が病に倒れたことを知って、日本へ帰ります。けれども新妻のワルトラウトにとって、日本の生活は孤独でした。思い切って外出しても感嘆の眼差しを向けられることがとても居心地悪く(当時の日本では外国人は珍しかったのです)、代わりに庭を散歩していたと、彼女は後に語っています。
鎮一が日本に帰ってから、父政吉が金銭面で苦難を強いられた時がありました。すると、鎮一は自分の美しいグァルネリのヴァイオリンを売ってしまいます。政吉がワルトラウトに彼女の高価なピアノを売れないかと相談すると、ワルトラウトも、ドイツから着いたばかりのピアノを売ることに同意しました。そして、彼女は、もう二度と自分たちはヨーロッパに帰らないことを約束するのでした。
ある日、クワルテットがリハーサルをしていた時のことでした。すぐ近くで遊んでいる甥と姪を見て、鎮一はふとこう思ったのです。「ドイツ人の子どもはドイツ語を話し、日本人の子どもは日本語を話す」
演奏をやめ、鎮一は叫びました。「日本中の子どもが日本語をしゃべっている!」
鈴木先生は、この時の兄弟の反応を笑いながら話してくれたものです。彼らは、この突然の叫びに、まったく理解を示しませんでした。
彼らの反応は想像にかたくありません。「そりゃあ、そうだろう。他に何語を話すって言うんだい? コンサートは来週なんだ。さっさと練習をしよう!」
しかし鎮一は、子どもが母語を学べるなら、何だって学べると言うことに気づいてしまったのです。東京で育った子どもが東京弁を話すのはどういう訳だろう。もし大阪出身の子であればアクセントは、まったく変わるだろう。何がこうさせるのだろう、子どもたちはどうやってこの微妙な違いを会得するのだろう。鎮一は自分に問いかけました。
日常において子供になされている母語の教育は素晴らしい教育法であることを知った。それはなんの苦労もなく朝から晩までたゆまず行われている。
すべての子供たちは、親の愛情による言葉の刺激を受けながら、落伍することなく、母語の能力を着実に身に着けていく。
親が、毎日子どもに音楽のレコードを聴かせれば、子どもはいとも簡単に音楽という言語を学ぶことは、鎮一にとって明らかでした。適切な指導と、家庭での親のサポートがあれば、子どもたちがその言葉を再現するよう訓練することができるのだと。
この時の、若き鎮一の興奮がいかほどのものであったか、想像できるでしょうか。日本の新しい文化の幕開けのとき、鎮一は新たな概念を夢に抱きつつありました。それは、まるでオーストラリアの開拓者が新しい生活を見い出したかのような、インターネットが発明されたかのような、そんな興奮だったことでしょう。
鎮一が自分の教育メソードを考案したのは、1940年代の頃でした。1945年8月15日、太陽の女神の直系とされる天皇陛下が、日本国民に向け、初めてラジオで語られます。その驚きは、計り知れないものだったことでしょう。日本国民は、天皇の声を聞いたこともなければ、お顔を拝見することも許されなかったのですから。この「玉音放送」で、天皇は「戦局必ずしも好転せず」と戦争の終結を宣言し、日本国民に「堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶ」よう伝えられました。
天皇は、かつての洗練かつ鍛錬された生活が完全に崩壊してしまった日本国民に向かって語られました。打ち負かされ、意気消沈した国民の精神を再び奮いおこし、勇気付けるものが必要でした。鈴木先生は、その音楽教育の手法が、手立ての一つとなるやもしれぬと思われたのです。
ロイス・シェパード先生の略歴
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。