オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第4回です。今回は、第4章「スズキ・メソード、西洋へ」を掲載します。時代を超えた鈴木鎮一先生の姿が活写されています。

先月は、「第3章」を掲載しました。第5章以降は来月以降の掲載になります。
 

第4章  スズキ・メソード、西洋へ

ロイス先生の原著は、アマゾンのサイトで
購入できます。画像をクリックするとAmazonに
リンクします。

 

人間のすべての能力は才能である

 
 1960年ごろ、オーストラリアのテレビで、日本の小さなヴァイオリニストたちの映像が放送されました。私たちは、日本で起こっているその驚嘆すべきこと、数十名の子どもたちが鈴木という名前の男性に指揮されて、素晴らしい演奏をする様子を目の当たりにしたのです。彼らの演奏は、その男性の新しい音楽指導方法によって生み出されたのだ、と報道されました。私は興味をそそられ、日本からヴァイオリンの指導曲集を1セット取り寄せ、私の生徒たちに試し始めました。  
 
   指導曲集は、ほとんど無色の透き通ったプラスチックのレコード盤とともに届きました。レコードの演奏は鈴木先生のものではなく、複数のヴァイオリニストが演奏しているものでした。このため、西洋では、スズキ・メソードはグループで行なうものだという誤解が生じてしまいます。
 
 1967年、私は、主人と子ども二人を連れて、ニューヨークへ移り住みました。そこで私は、「スズキ・メソード」と名のって音楽を教えている学校を訪れました。当時アメリカでは、主要なオーケストラにおいて優れた弦楽器奏者が不足していたため、小学校で弦楽器の授業が取り入れられ始めていました。教育関係者は、才能教育研究会のスズキ式母語教育法を知ると、そのまま「スズキ」の名をそれまでの弦楽器の授業に付けたのです。これが、アメリカでのスズキ・メソードの始まりでした。
 
 もちろん、これはアメリカにおけるスズキ・メソードの歴史のごく初期の話です。その当時、私が何も知らずに見ていた教師たちは、その教育法を理解せず、単に「スズキ」の名を取り入れただけでした。アメリカ合衆国には、常に優秀なスズキ・メソードの指導者たちがおられましたし、今も大勢の優れたスズキ・メソードの教師と生徒たちで溢れています。
 
   私がニューヨークで見学した授業は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そして記憶に定かではありませんが、多分コントラバスも交えた、10歳以上からなる30名ほどのクラスでした。鈴木先生が、ヴァイオリンの習得において親のサポートは欠かせないと明記しているにもかかわらず、そのクラスでは、親はまったく関与していませんでした。それどころか、音楽の「母語教育」とはかけ離れ、演奏を聴くことも授業では行なわれませんでした。彼らが授業で使っていた教科書は、ジョン・ケンドール(アメリカ合衆国の初期のスズキ・メソード指導者)による「リッスン・アンド・プレイ」という本だったのですが、これは鈴木先生の許可を得てスズキの指導曲集第1巻を元にして作成されたものであったにも拘わらずです(初版のスズキ指導曲集第1巻、つまり「リッスン・アンド・プレイ」には、現在使用されているスズキ・ヴァイオリン指導曲集第1巻の最初の9曲が掲載されています)。
 
   当時のほとんどの教師は、言葉を毎日聞いていれば簡単に言語を習得できるのと同じように、毎日音楽を聴いていると音楽を習得できる、ゆえに子どもたちは録音された音楽を毎日聴くべきである、という鈴木先生の根本方針を完全に忘れていました。さらに、アメリカの授業では、スズキの生徒たちは個人レッスンでなく、大人数のグループでレッスンを受けるのだと誤解されていました。
 
 私が見学したニューヨークの教師たちは、正しい演奏法を一生懸命に教え、1年後には子どもたちが様々なリズムからなる「キラキラ星変奏曲」と「ちょうちょう」を弾けるようにしていました。ただこれは、指導曲集第1巻の最初の2曲にすぎず、それは、スズキ・メソードが驚くほど効果があるとは言いがたいものでした。
 
   鈴木先生がニューヨークへセミナーをしに赴かれた時、同行した私は、幾度か先生から個人レッスンを受けることができました。けれどもこの時の私はまだ、この師にそれほどの衝撃は受けませんでした。私が感じたのは、彼がとても熱心でカリスマ性があるということ。しかし、スズキ・メソードがひどい形で教えられているのを見た私は、この手法は西洋では通用しないと思いました。当時の私はまだ日本語が話せませんでしたし、鈴木先生の英語もあまりお上手とは言えませんでした(先生の英語はいつまでも流暢とはなりえず、よく日本語と英語、英語とドイツ語を混じえながら、話しておられました)。
 
どの子も育ちます。けれども私の英語のようには教育しないでください。私の英語は日本製ですから。
 
 私は、まだ幼い娘のキャシーに、この偉大な先生のレッスンを受けさせようとしたことがあります。しかし、彼女は他の幼い子どもたちと同様、弾くのを拒んでしまいました(キャシーは現在、デュッセルドルフのローベルト・シューマン専門大学とケルン大学で、ヴァイオリンとヴァイオリン教授法を教えています)。
 
  鈴木先生から、自分の生徒は7歳になってヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲イ短調を弾けるようになったら譜読みを始める、と聞いて私は戸惑いました。そして、ニューヨークの子どもたちがそのレベルまで達しないということは、日本の子どもたちは、確実に何かが西洋の子どもたちと違うのだと思うに至りました。そして、私は、鈴木先生がアメリカの子どもたちに教える様子を何度か拝見しましたが、それは、私がニューヨークで見たものとはまったく異なっていたのです。
 
   私は、日本の教師や子どもたちを見に行かねばならないと思いました。実際に日本へ赴き(一番初めは、シドニーのヴァイオリニストで、のちにオーストラリアのスズキ・メソードの先導者となるハロルド・ブリッセンデンとともに)、私は保育園、小学校、中学校、高等学校、大学とすべて訪問させていただきました。そして、どうだったでしょうか。日本の子どもたちは、他の国の子どもたちと何一つ変わらなかったのです!

(パタソン真理子訳 次号に続く)

ロイス・シェパード先生の略歴

 

 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。