オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第8回です。今回は、第5章「思い出」後半の最後の部分を掲載します。時代を超えた鈴木鎮一先生の姿が活写されています。

第5章  思い出(後半の最後の部分)

ロイス先生の原著は、アマゾンのサイトで
購入できます。画像をクリックするとAmazonに
リンクします。

 

7歳になる

  
 ある朝早く、先生に才能教育会館の前でお会いすると、先生はこう仰いました。
「こっち、こっちにきて見てごらん」
  先生は、二人の生徒が家でヴァイオリンの練習をしている様子のビデオを見ておられました。
 
 年上の子は8つか9つで、クライスラーの「前奏曲とアレグロ」を弾いていました。その難易度は指導曲集の第10巻と同レベルでしょう。
 
 そして、2歳の妹の番です。彼女はE線で一番はじめの曲「キラキラ星」のリズムを練習しています。「うわー!」彼女のお母さんはできる限りのことをすべてされていました。コンサートの観客として人形を並べ、練習すれば今度のレッスンで上手に弾けると子どもを励まし、お父さんが帰ってきたら父親の前で演奏させます。
 
 お菓子で釣る。
 絶対にいけません。
 
 妹がクライスラーの「前奏曲とアレグロ」を弾きたがったので、二人で一緒に弾きます。2歳の女の子はすべてをE線で弾きます。1/32サイズの弓の動きはすべて正確で、向きも正しく、動きの速さも正確で、お姉さんとまったく同じでした。お姉さんが何時間も練習する様子を見て、すべてしっかり吸収していたのです。
 
 鈴木先生は、指導曲集第1巻の「キラキラ星変奏曲」を学ぶのに6ヵ月、その後の第1巻のすべての曲で6ヵ月と仰っていました。きっと、基本の技術が定着する前に教師が急いで「キラキラ星」を終わらせたりしないように、そう言っておられたのだと思いますが、そのお言葉は「スズキの法則」としてそう示されています。そのおかげで、メルボルンで教えていると、自分の子どもは進歩していないと思ってしまう親御さんに私はしばしば悩まされることになりました。鈴木先生は、第一に、子どもの進歩に関して一定の厳格な法則はないと確信しておられました。
 
 楽器演奏の上達には、幾つかの要因があります。子どもの年齢、身体の協調、家でどれだけ音楽を聴いているか、指導曲集のお手本の録音を一日にどれだけ聴いているか、練習時間、親の姿勢などです。
 
 メルボルンで私が教えた生徒には、指導曲集第1巻を3ヵ月で終えた子もいれば、5年かかった子もいます。ある生徒は「キラキラ星」に3年かかりましたが、大学で音楽を専攻するまでになりましたし、ある生徒は第1巻に2年かかりましたが、次の2年で第7巻まで終えた時は若干9歳でした。第6巻以上には、ヴィクトリアン・サーティフィケイト・エデュケーション(ヴィクトリア州の大学進学における成績証明書)に出るようなレベルの曲も含まれていることを付け加えておきます。
 
 私がガランとしたホールの後ろで、素晴らしい指導者である森ゆう子先生のグループレッスンを拝見していた時のことです。鈴木先生が前から手招きをされました。私は言われるがままに、何事かと前へ行きました。
 
 先生は、2列目の子どもを見て笑っておられました。小さな女の子がヴィヴァルディを弾きながら、疲れているのか、居眠りをしているのです。彼女の腕と指は、身体が前後左右に揺れるに合わせて動いています。そして、目を覚ますと、やってはいけない居眠りでもしたかのように、グイグイとがんばって演奏し始めました。彼女の周りの子どもたちは、顔を見合わせてクスクス笑い、森先生やヴィヴァルディの音楽よりも、その女の子に注意を払っていました。もちろん、その女の子はどうにもならず、1列目へ倒れ込んでしまいました。
 

「指導50周年記念コンサート」で挨拶される森 ゆう子先生
(松本市音楽文化ホール、2010年3月27日)

 1970年ごろからは、鈴木先生はコンスタントに子どもたちを教えることはされず、それは主に、森先生のお役目になっていました。森先生は会館の近くのスミスホールで教えられており、研究生などのための公開レッスンもしてくださっていました。非常に卓越した指導者で、子どもたちを教えるのに特に長けておられました。

 穏やかな鳥羽尋子先生もまた素晴らしい先生でした。優しさと気配りをもって子どもたちへ指導されていた鳥羽先生は、鈴木先生の哲学「愛に生きる」をしっかりと理解しておられる方でした。
 
 日本では、人前で鼻をかむことは無礼にあたります。鼻をすする方が、まだましなのです。もしひどい風邪をひいていれば、マスクをつけた方が良いでしょう。ある日私は、生徒が森先生からメンデルスゾーンの協奏曲の第2楽章のレッスンを受ける様子を見学しました。生徒の母親はひどい風邪をひきながらも、娘さんの後ろに立って注意深く楽譜を追っていました。
 
  メンデルスゾーンの美しくゆったりとした曲の流れは、大きな鼻をすする音で酷く台なしになっていました。
 
 私は、片岡ハル子先生のピアノのレッスンも拝見しました。片岡先生は才能教育会館で教えつつ、鈴木静子先生(鈴木鎮一先生の義妹)とともにスズキのピアノ・コースを作られました。
 

スズキ・フルートの
最初の指導曲集

   研究生は、フルートのコースを設立された髙橋利夫先生による楽曲解釈のクラスに出席するよう求められていました。髙橋先生は、曲の流れ、表現法と適切な音質の観点から、器楽と歌がどう関わるかの重要性を説いておらました。この授業では、楽器演奏者と歌い手の録音を聴きました。髙橋先生のお気に入りの歌手は、テノール歌手のジョン・マコーマックでした。
註:ジョン・フランシス・コート・マコーマック、アイルランド人のテノール歌手(1884-1945)
 
 鈴木先生は、初めはスズキのフルート・コースのメソードにあまり関心がおありではありませんでした。先生はいつも、ご自分の手法は、振動する弦の音に基づくものだと仰っておられました。しかし先生はすぐに、フルートから流れる空気が振動しているのだから基本は同じであると、それを受け入れられ、髙橋フルート・スクールの指導曲集の第1版の右上に小さく「スズキ・メソード」の文字が入りました。
 
 鈴木先生が、幼児のクラスにレッスンをしようと部屋にお入りになろうとした時、外で一旦立ち止まられたのです。私は、「どうされたのか」と先生を窺いました。
 
 「ちょっと準備しています。これから7歳になります」と仰られ、そして部屋にお入りになりました。
 
   先生は、小さい子たちの身体がどの程度動くかまでよく思い出して、子どもの気持ちに合うよう準備する、と仰っていました。
 
 日本には、2歳以下でもヴァイオリンを習っている子どもたちがたくさんいました。会館のホールで子どものグループレッスンがある時は、みんな何度か階段を上り下りせねばなりませんでした。子どもが小さすぎて階段を上れないときは、お母さんは子どもとヴァイオリンを上まで運び、ヘンデルやバッハを弾いた後に、また子どもたちを下へ連れて降りるのです。
 
 砂場で遊んでいる小さな子どもたちは、小さなカセットプレーヤーを背中にしょって、ヘッドフォンで音楽を聴いていました。
 
 ある時、鈴木先生がスリッパ姿でタバコをくわえて、渡り廊下へやって来られました。
 
 「こちらに来て聴いてご覧なさい」先生は仰いました。私は先生の個人レッスン部屋へ入りました。先生は、7歳の女の子がパラディスの「シシリアーノ」を演奏しているテープを聴かせてくださいました。それはとても美しい演奏でした。
 
 「1/4サイズのヴァイオリンのはずですよね。なんて美しい音色でしょう。きっと1/4の方が弾きやすいに違いありませんね!」
 
 先生は、訝しげに私の方をご覧になりました。私は心の中で叫びました。「馬鹿なことを言ってしまった!英語で冗談を言っても、先生には通じないのに」
 
 翌朝、先生は玄関の前で私を待っておられました。嬉々として先生は仰いました。「思いつきました!今日からみんな1/4サイズで弾きましょう…」
 

アイ ハブ ニュー アイデア!

 
 鈴木先生が子どもたちの卒業録音をお聴きになっていた時のことです。その年は卒業録音が8,000本にも上っており、先生は毎朝5時からその録音を聴いておられました。すべての演奏を細心の注意を払って辛抱強くお聴きになり、ご自身の評価を録音されているお姿を拝見して、私はまたしても、先生の疲れを知らぬそのお姿に感嘆の思いでいっぱいになりました。
 
 7歳か8歳くらいで10冊の指導曲集を終えてしまう生徒が日本にはたくさんいました。ある時、アメリカから戻られたばかりの鈴木先生がこう仰いました。「以前は日本の生徒のレベルが高くて、アメリカはそうでもなかったのですが、今はアメリカの生徒もとてもレベルが高くなって来ています」
 
 そして、笑いながら自慢げにこう付け加えられました。「でも、日本の生徒は素晴らしくレベルが高いです。しかも若くしてね」
(パタソン真理子訳 次号に続く)


ロイス・シェパード先生の略歴

 

 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。