オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第9回です。今回は、第5章「思い出」後半の最後の部分の続きを掲載します。時代を超えた鈴木鎮一先生の姿が活写されています。

第5章  思い出(後半の最後の続き)

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神のような?

  
 ある晩、鈴木鎮一先生は、海外からの若い研究生たちを、松本のフランス料理レストランに連れて行かれました。食事の後、83歳のまだまだ若さに満ちた鈴木先生は、元気よく道に駆け出しました。心配した研究生たちは、「先生は大丈夫だろうか」とちょっと離れてついて行ったのですが、彼らは気づきました。自分たちを超越している(神のような)人と思っていたこの方は、実はまったく普通の人と変わらず、会館の外の現実世界を満足気に歩き回れる人なのだと。
 
 先生は何十年か前に、決して怒らないと決めたのだと教えてくださいました。一度だけ、子どもたちのグループにマルティーニのガヴォットを教えておられる時に、先生がイライラされているのを目にしたことがあります。先生は曲の中の順番を間違えて弾いてしまい、舞台を降りて、帰って来られませんでした。きっと、何か他のことが気になっておられたのでしょう。
 
  この曲は、何度もテーマが繰り返され、その間に違ったメロディーが入ります。小さな子どもたちがその順番をしっかり頭に入れ集中して、始めから終わりに辿り着けることに、私はいつも感嘆の思いでいます。さもなければ、マティーニのガヴォットは三日ほど弾き、さまよい続けなければならないでしょう。
 
 またある時、鈴木先生が私にイライラされたことがありました。先生の“ニューアイデア”では、右の親指は、毛箱(弓の一番下の部分で奏者が手にする場所)のカーブした部分の普通よりももっと下に位置すべきでした。金張りとべっ甲で作られた美しく真っさらな弓を東京から持ち帰ったばかりの私は、その毛箱の角が鋭すぎて、そのようには持てませんでした。親指をグイと押してUの形にすると痛いのです。
 
   鈴木先生は私の親指を掴んで無理矢理下げたのですが、これの痛かったこと。
 
 先生は、若い頃にどうやって山に登ってヒーラー※になる修行をされたか教えてくださいました。私は先生が人を治癒しているところを何度も拝見しました。そうすることで先生の「気」はたくさん吸われているようでした。「腕が痛い」と言っていた子どもたちが、先生に診てもらった数分後に、喜んでレッスンに戻っていくのを見たことがあります。
※編集部註:病気や怪我を治すことができる人
 
 「じゃあ戻って弾きましょう」彼は言いました。
 
 足に全治数ヵ月のひどい怪我をしたアメリカ人の男の子が、鈴木先生のところへ足を引きずって行き、30分後に軽々と歩き去っていったこともあります。
 
 幾つかの禅の修行は、癒しの波動が作用するよう調節するものだと言われます。
 
 レズリー・プリースト※は、鈴木先生がご自分の手を彼女の肩に置き、彼女が演奏する時の上腕の緊張をリラックスさせようとされた時のことを、こう語っています。「私は、弓を上へ運ぶ時に、右肩を固くして上にあげてしまう癖がありました。松本での先生との初めてのレッスンで、私は緊張し、肩の強張りは一層酷くなっていました。それが、鈴木先生が肩にお触れになった瞬間、私の心と身体に、ある実感が走りました。身体全体に痺れが走り、私の心は満たされたのでした」
※編集部註:オーストラリアのヴァイオリン科指導者
 
 鈴木先生は、ご自身が「寒さや暑さに耐えることを学んだ」と仰ったことがあります。修行の中で、白く燃える金属を掴まれたそうです。先生は松本の寒い真冬でもコートをお召しになることはありませんでした。
 
 このような話をすると、西洋人が持つ鈴木先生に対する神のようなイメージを助長するのではないかと、最近言われたことがあります。ご自分はカソリックの信者であると宣明されているものの、鈴木先生は日本の子、時代の子であられます。
 
 鈴木大拙の言葉(An Introduction to Zen Buddhism)を引用しましょう。「不仕付けながら申し上げると、禅には、制度化された、あるいは具体化されたすべての哲学、宗教、そして極東の人々の、とりわけ日本人の生き方そのものが含まれています」。確かに、禅を学んだ人は、属性においてとりわけ暑さや寒さといった不快さに無頓着になるようです。
 
 鈴木先生は、若い頃は神社で祈り、父からは与えられたものに感謝して「それ以上望まないように」と言われたと仰っていました。
 
  1600年ごろ以降、日本人は神道と仏教の両方に親しんで来ました。キリスト教は、1853年頃から※再び広められるようになり、1871年には信仰の自由が布告されました。今日、日本人は人生の主な行事―出産、結婚、死などを、異なった宗教の儀式に則って行ないます。
※フランシス・ザビエルが1549年にキリスト教を布教したが、1600年代初頭に禁止令がだされる。
 
 しかし、鈴木先生のお人柄の多くは、純粋な禅の行ないを思い起こさせます。気取らなさ、寛大さ、軽やかさ、うぬぼれの無さ。禅の書を学ぶ傍ら、大叔父である仲仙寺の浅野斧山というお坊さんを、禅の師と仰いでおられました。
 
 ある禅師はこう語っています。「自分を順応させる意図的で変わった方法を使わずに、ありのままの自分を表すことはいちばん大切なことだ」また、「もし皆さんのする修行が申し分のないものなら、皆さんはそれを誇りに思うようになるだろう。そうなると、皆さんのやっていることは申し分なくても、それに何かが加えられることになる。誇りに思うのは余分なことだ。正しい姿勢は余分なものをとり除くである」※禅へのいざない(鈴木俊隆)
 
 鈴木先生が自惚れなど皆無の方であることは、大人に接している時も子どもに接している時も、常に明らかでした。ある朝、会館に着くと、先生が子どもたちとロビーでゲームをして遊んでおられました。ある子どもが、「サイモン」というプラスチックのケースに入った、押すと音の出るボタンが4つついたゲームを持って来ていました。箱から無作為にいろいろな音が出て、ゲームをする者はそれと同じ音のボタンを押さねばなりません。先生は私を見て笑いました。先生はわざと間違った音を選ぼうとしているのです。その男の子はとても興奮していました―鈴木先生を“負かしている!”と。
 

音にいのちあり

 
 研究生も、時には、先生のレッスンで酷い演奏をする時がありました。弾き終わると、先生は頷き、タバコが灰皿に注意深く置かれます。そして部屋の隅にある快適な椅子から決然と立ち上がると、頷き笑いながら演奏者の方へ歩いてこられ、こう仰いました。「ソー、ミゼラーブル!(酷いですねえ)」。「ミゼラブル」のラにアクセントを置くので、フランス語のように聞こえました。そして注意の言葉として、こう仰いました。「音にいのちあり」と。
 
 先生はいつもエネルギーに満ち溢れておられました。床の上、椅子の上 、生徒と弓やヴァイオリンを交換し、体を後ろに曲げ、教室中を踊る、そんな老翁のお姿がそこにありました。そのようにはしゃぐ姿の裏で、彼は完全主義者であり、最高のヴァイオリンの音色を求め続けておられたのです。
  美しい音なくしては、ヴァイオリンはただの道具でしかありません。
 

「思ったら実行せよ」

 
 ある教師が鈴木先生に、もうかなり年齢のいった子どもが「ヴァイオリンを始めたい」と言っていることを話しました。
 「それなら、直ぐに始めないと」鈴木先生は急いで応えられました。「もっと年をとってしまう前にね!」
 
 ある成人の男性で、先生のレッスンを受けている人がいました。何ヵ月もその男性は指の動きや弓の持ち方を修得しようとがんばったのですが、なかなか上手くいきません。先生は優秀なヴァイオリニストに育てるというより、彼の目標を達成させてあげたいと思っておられました。
 
卑怯(ひきょう)、才能に藉口(しゃこう)した※努力の放棄
※何かにかこつけること、口実を設けて言い訳をすること
 
非才を嘆くは愚
 
人間の全ての能力は才能
 
思ったら実行せよ
やってみましょう…
 
 外国からの研究生の中に、妊娠中でお腹の大きな女性がいました。先生は、弓を動かす時に大きなお腹が邪魔になって彼女が困っている様子を見て、笑いながら優しく彼女の肩をたいておいででした。
 

畏敬

 
 鈴木先生は、戦争中に木曽福島のヴァイオリン工場がどうやって水上飛行機のフロート作成のために材木を準備したかについて語られたことがあります。工場長として、鈴木先生は木靴工場を引き継ぎ、その材木を使われたのです。その時に、生産性を高めるには、従業員を家族と同じように遇することだとお気づきになりました。
 
  もちろん、先生は、親にも教師にも研究生にもどんな年齢の生徒たちにも、皆平等に接しておられました。本書のはじめに「神のような、などと聞けば先生は大笑いされるだろう」と言ったのは、そういうわけなのです。

(パタソン真理子訳 次号に続く)

ロイス・シェパード先生の略歴

 

 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。