地球市民としての音楽
〜あるスズキファミリーの回顧録
水田愛、PhD
鈴木鎮一先生との出会い
東京のマンションの一室で、赤ん坊がティッシュボックスからティッシュを一枚一枚引っ張り出しています。母親は床の上の惨状に目をやりながら、ピアノの練習をしている上の娘の隣に座っています。スズキペアレントとして、これは毎日繰り返される見慣れた光景でした。
赤ちゃんだった私はこんな風に姉兄の音楽活動−毎日の練習、毎週のレッスン、毎月の合同レッスン、そして季節ごとの発表会−にどっぷりと浸かって育ちました。姉と兄の参加していたスズキの大会にいつも通り連れて行かれた2歳のある日のこと、子どもたちの演奏が終わる頃、ヴァイオリンを持っている女の子のところまで駆け寄り、その子の楽器を奪わんばかりに母に「これ私の」と言ったそうです。あまりにも決意が固く、母はそこまで言うならばと、お茶の水教室の正岡紘子先生のお教室に通わせてもらえることになりました。
3歳の時の正岡先生との初めての発表会
アメリカへの演奏旅行で。ワルトラウト夫人と
国際部の川上充子さん、前列左が江口有香さん
と姉の泉
母が初めてスズキ・メソードに出会ったのは、1970年代の前半、友人のお子様の発表会に招待され、子どもたちの演奏の後に、鈴木先生が講演をされた時でした。子どもたちの演奏はどれも母の想像を遥かに超える素晴らしさでした。音程やリズムが正確なだけでなく、音楽的に美しかったのです。小さな子どもでもモーツァルト、バッハやベートーヴェンを演奏し、いわゆる子ども用に作られた曲ではなかったことも驚きだったようです。
特に「愛深ければ為すこと多し」という鈴木先生の哲学に強く心を打たれた母でしたが、子ども騙しの曲ではなく、すべての子どもが幼い時から美しいクラシック音楽を奏でることができることに魅了されました。また、偉大な曲を理解できるようになれば、進学に必要な学力も身に付くとおっしゃっていたことにも深く共感したのでした。
「これこそ私のしたい子育てだ」と確信した母は、音楽が私たちの生きる力になると信じて、深い愛を私たちに注ぎ込みました。鈴木先生が何度も繰り返し唱えられてきたように、スズキ・メソードの真髄は、プロの音楽家を育てることではなく、良い市民を育てることなのです。
オーストラリアへの引越し:国際文化資本としての音楽
私が4歳になった時、父の転勤でオーストラリアのブリスベンに家族で引っ越すことになりました。両親はすでに英語を話すことができましたが、私たち兄妹は、まったく英語の知識がありませんでした。この引越しは特に私の姉と兄にとって辛いものでした。二人とも仲の良い友だちや大好きな課外活動を日本に残して、何も知らない土地に向かったのです。
オーストラリアに引越した80年代は、白豪主義の名残りもあり、アジア人蔑視が色濃い時代でした。学校に母の作ってくれたお弁当を持っていけば、友だちから「うわー気持ち悪い!」と言われ、家に帰って母にこれからはキュウリのサンドイッチだけを詰めてくれるようお願いしたのを覚えてます。
オーストラリアに到着してすぐに、両親は3人の子どものためにそれぞれの楽器の先生探しに奔走しました。両親ともブリスベンの音楽事情について何も知らなかったので、道端のパフォーマーに話しかけてみたり、クイーンズランド音楽院を訪問したり、あらゆることをしてくれました。まだブリスベンでスズキ・メソードはそれほど知名度のない時代でしたが、スズキに詳しい先生と出会うことができました。
それから間もなく、姉が音楽院で演奏することになりました。バッハのイタリア協奏曲を弾き始めるやいなや、その場の空気が興奮に包まれるのを感じました。たった4歳の私でも、何かが変わったと理解できました。それは受け入れられ、承認された、という感覚です。母に最近このことについて話したのですが、その時隣に座っていた老婦人が母に「言葉なんて必要ないね」とささやいたとのことです。
私たちは言語的にはミュートさせられていましたが、音楽という言語を通してアンミュートされたのです。音楽は言葉をも超越します。この時から私たちはブリスベンの音楽コミュニティの仲間入りをすることになりました。現地の音楽祭でトリオを弾いたり、兄は新しくできたコンサートホールの柿落としでオーケストラと共演したり、新聞記事にフィーチャーされたり、
家族5人でコンサートをしたりしました。私たちにとって音楽を奏でるということは、まったく知らない新しい土地で居場所を作るということでした。もう疎外感に苛まれる必要などありませんでした。音楽への愛という共通言語を話したからです。
ブリスベンでは、日本とオーストラリアのスズキの架け橋として活動しました。ある夏、鈴木先生が子どもたちを引き連れて日本から訪問されました。その時、スズキチルドレンの一人だったピカリ直美さんも我が家に数日間滞在し、一緒に学び、演奏をしました。この直美さんも今ではスズキの立派な先生になられたとのことです。一方で、両親はシンポジウムや大学で3人の子どもをスズキ・メソードで育ててきた経験について講演する機会が増えるようになりました。
また、スズキ・メソードで育ったことにより、新しい言語を比較的早く習得できたというおまけの利点もありました。耳から入ってくる英語を、自分の口で再現するという作業は、テープで聴いた音楽を自分の指で再現する作業ととても似ているからです。小さい頃から音楽で鍛えられ、微妙な音やトーンの違いを聴き分けることができる耳は、会話能力を発達させるのに必要不可欠な能力でした。
音楽と地球市民
4年後、やっとブリスベンが自分たちのホームだと呼べるようになった頃、日本に帰る時がやってきました。私や兄姉にとって日本社会に再適応するのは想像以上に大変なことでした。私の場合は日本語をほぼ忘れてしまっていたので、言いたいことをうまく言うことができませんでした。おかしな日本語を話し、振る舞いも変だったのか、クラスメイトから浮いてしまって、からかわれることも度々でした。そんな私を救ってくれたのはまたヴァイオリンの存在でした。友情、言葉、大好きなテレビ番組などオーストラリアと日本の生活の断絶の中で、音楽はこの二つの生活を繋ぐ唯一の撚り糸(よりいと)だったのです。
オーストラリアを去る時、スズキ指導曲集の第6巻をモイラ・ウィリアムズ先生のもとで学んでいました。母は東京でスズキの先生を探し、安田廣務先生にオーストラリアで取り組んでいた第6巻から引き続き見ていただけることになりました。まず卒業テープとして鈴木先生に提出するためにヴィヴァルディのコンチェルトト短調と、コレルリ作曲のラフォリアを録音してくださいましたが、こちらは驚いたことに丸優テープに選ばれたのです。
鈴木先生が母にスズキチルドレンは学業でも成功するとおっしゃっていたことは本当でした。姉はヨーロッパで音楽の道に進みましたが、兄はビジネス、私は研究の道を進むことになりました。しかし、どの道に進もうが音楽が常に私たちの基盤にありました。
カナダのトロント大学で修士号を取得するために勉強していた時、憂鬱な気候、人種差別、大量の研究作業、そして家族と離れ、何も知らない土地で一人きりで暮らす日々を伴走してくれたのはヴァイオリンでした。孤独と憂鬱に戦いながらも、大学のオーケストラのオーディションを受けました。オーケストラはアカデミアの世界の競争から逃れて、世界中の友だちと出会う場となりました。厳しい締め切りがあっても、皆とブラームスを弾く喜びを味わうためにリハーサルに足を運びました。
以後、学業と仕事のために日本とカナダを行ったり来たりしましたが、どの街に引っ越しても、その地域のオーケストラに参加するようになりました。妊娠中も、博士課程の勉強中も、博士論文の審査公聴会の直前でも、音楽を愛する仲間たちとともに音楽を奏でることが私のTo-Do リストから消えることは決してありませんでした。皆それぞれ違った仕事に付き、異なる国、地域からやってきましたが、美しい音楽をともに作り上げるという同じ目的のために、違いを乗り越えて集まるのです。
母が講演会で聞いた鈴木先生の「良い市民を育てる」という目的は今でも心に響きます。「良い市民」という先生の言葉を越えて、スズキ・メソードは言語や人種の壁を乗り越えることができる地球市民を育成していると言っても過言ではないと思います。カナダの大学で「グローバルシチズンシップ入門」の授業を教えながら思うのは、グローバルな問題を解決するにあたり、音楽教育の力が見過ごされているのではないかということです。荒廃した戦後日本に於いて「すべての人々の幸せのため」に音楽という希望を届けることが鈴木先生の願いだったとのことですが、北米における社会的、政治的な分断とパンデミックの惨状を目の当たりにするにつけ、この願いは今こそこれまで以上に大切なのではないかと思います。
自分が母になった今、両親が私にしてくれたように、娘たちにも音楽という贈り物をしたいと思っています。現在9歳の長女は4歳からバンクーバーのスズキプログラムでヴァイオリンを始めて以来、着々と成長しています。所属している室内楽やジュニアオーケストラで演奏することに情熱を燃やしています。音楽を通して、娘は人の話をよく聞くこと、そしてコミュニティの一員として責任を持つことを学んでいるようで、昔の自分たちを思い出します。オーケストラには様々なバックグラウンドから、性格も上達度も異なるメンバーが集まっています。その仲間たちと一緒に、忍耐とユーモアを持って音楽作りに取り組んでいる娘を見て、とても嬉しく思っています。それぞれの違いを尊重しながら、素晴らしく美しいものを作り上げるためにともにがんばる、という地球市民として最も大切な要素を音楽を通して身につけているのです。
親として、クラシック音楽界の激しい競争に心を奪われてしまいそうになる時もあります。娘たちと毎日ヴァイオリンとピアノの練習をするにつけ、音楽をしている本当の目的は何なのか自分を戒めなければいけません。そんな時は、昔、鈴木先生に送った録音テープを聴いてみたりします。実は子どもの頃、鈴木先生がせっかく録音してくださったコメントをしっかり聞くことをしなかったことを悔やんでいます。でも、バッハのヴァイオリンコンチェルトイ短調の卒業録音のために準備をしていた娘に、鈴木先生が私のバッハの録音テープでおっしゃってくださったことを伝えました。「あなたのバッハのヴァイオリンコンチェルトイ短調をとても嬉しい気持ちで聴かせていただきました。何年も一生懸命練習なさって、今ではこんな大曲を立派に弾けるようになって、本当におめでとうございます」。鈴木先生の深い知恵と教訓が、次世代に引き継がれ、音楽を通して生き続けていることに心からの喜びを感じずにいられません。
水田愛、PhD
3歳より正岡紘子先生のもとでヴァイオリンを始める。4歳よりオーストラリアに渡り、現地でヴァイオリンを続ける。日本に帰国後は安田廣務先生に師事。慶應義塾大学総合政策学部を卒業後、カナダ政府奨学生としてトロント大学で修士号を取得。日本に帰国後、ユネスコの教育交流事業に携わり、外務省より専門調査員としてバンクーバー総領事館に派遣される。3年間の任務を終えた後、ブリティッシュコロンビア大学に奨学生として博士課程に在籍し、二人の娘の出産と育児をしながら言語教育学の博士号を取得。歴史学者の夫、娘たちと犬とバンクーバーに暮らして早15年。世界中どこにいてもヴァイオリンを弾き続けている。そして、スズキペアレントだった母の人生を今は自分が経験している真只中。
※水田愛さんの記事は、アメリカスズキ協会、およびニュージーランドスズキ協会がそれぞれ発行する媒体でも紹介されています。
→SAA
→New Zealand
Music for Global Citizenship: A Brief Memoir of a Transnational Suzuki Family
By Ai Mizuta, Ph.D.
In a tiny apartment in Tokyo, Japan, a baby is pulling out tissues from a Kleenex box one by one. Her mother is sitting beside her oldest daughter, who is practicing the piano, as she glances over to her baby girl making a mess.
As a Suzuki parent, this was part of her parenting routine. I, the baby, was immersed in my siblings’ musical activities before I could even walk or talk—from their daily practice, weekly lessons, monthly group lessons, to seasonal Suzuki music festivals. When I was two, my mother took me along to a festival where my sister and brother were performing. Toward the end of the festival, I walked over to a girl who was playing the violin. I told my mom, “this is my instrument,” and almost grabbed her violin away. I was so determined to play that my mother took me to have lessons of my own at Ms. Hiroko Masaoka’s studio in Ochanomizu, Tokyo.
My first presentation with Masaoka-sensei
when I was 3 years old.
On a performance trip to the USA.
With Mrs. Waltraud. Ms. Mitsuko Kawakami
from the International Department,
front row on the left is Ms. Yuka Eguchi
and my sister Izumi
My mother first encountered the Suzuki method in the early 1970s when she was invited to a children’s concert, which was followed by a talk given by Suzuki sensei. All the performances exceeded her expectations. The young children not only played the notes accurately, but beautifully. They performed music composed by Mozart, Bach, and Beethoven—not the typical “kids’ music” she had expected.
My mom was deeply touched by Suzuki sensei’s philosophy, “When love is deep, much can be accomplished.” She was also fascinated with his concept that every child could learn and play beautiful classical pieces from a very young age and that there was no need to start from a series of “dumbed down” songs. He also said that understanding great music prepares children well for entering good schools.
My mom knew this was the way to raise her children. Despite her own exhaustion, her deep love for us and the connection between music and other life skills kept my mother going. As Suzuki sensei repeated, the mission of the method was not about creating professional musicians, but about raising good citizens.
Moving to Australia: music as a transnational cultural capital
When I turned 4 years old, our family moved to Brisbane, Australia for my father’s work. My parents already knew English, but none of my siblings had any exposure to the language. The transition was especially difficult for my older siblings. They had friends and activities that they loved in Japan but had to leave everything behind.
There was a lot of stigma around being Asian in Australia when we moved there in the 1980s. The country had just dismantled a policy that barred non-European immigrants. If I brought a Japanese-style bento box to school, my classmates would say, “yuck!” I begged my mom to pack cucumber sandwiches instead.
As soon as we arrived, my parents looked for music teachers for each child. My mom and dad had very little knowledge about the musical terrain of Brisbane, so they looked very hard—from talking to street performers to visiting the Queensland Conservatorium. The Suzuki method was still not well established in Brisbane but several teachers were familiar with the method.
Soon, my sister had an opportunity to perform at the conservatory. I could feel the excitement in the air when she played the Italian Concerto by Bach. Even as a 4-year-old, I knew something had changed. I felt accepted and validated.
When I told my mom about this memory of mine recently, she recalled that an older woman sitting beside us had whispered to my mom, “We don’t need any words.” We may have been muted linguistically, but we were unmuted through the language of music. Music transcends words. After that, we were a part of the local classical music community.
We played trios at the local music festivals, my brother was asked to perform for the grand opening of a new theatre, we were featured in the local newspaper, and we even held a family concert. Playing music was a means for us to cultivate a sense of belonging in this new world. We no longer had to feel alienated because we shared the same language: the love for music.
In Brisbane, we served as the Suzuki bridge between Japan and Australia. One summer, Suzuki sensei visited with several Suzuki children from Japan. We hosted one of the Suzuki children, Naomi Picotte, for a few nights, learning and playing together. She has now become a distinguished Suzuki teacher in Japan. My mom and my dad began to give talks at symposiums and universities about their experiences raising three children through the Suzuki method.
Another one of the many positive side effects of years of Suzuki training was the ability to learn a new language rather quickly compared to other Japanese families who arrived in Australia around the same time. My sister, my brother, and I were able to speak English just as we were able to emulate the music that ran from our ears to our fingers. Our musical ears helped us distinguish subtle sounds and tones, which is crucial to developing oral language proficiencies.
Music and global citizenship
After four years in the city, just when we were finally calling Brisbane home, it was time to go back to Japan. It was hard for me and my siblings to readjust to Japanese society. Because I almost completely forgot Japanese, I could not express myself very well. I spoke funny, acted strange, and got picked on by my classmates. But again, it was the violin that helped me remain confident. Amidst the discontinuity of life between Australia and Japan––friendship, language, favorite TV shows––music was the common thread.
When I left Australia, I was working on Book 6 with my violin teacher, Ms. Moira Williams. My mother found me a new Suzuki teacher in Tokyo, Mr. Hiromu Yasuda, and I resumed my violin lessons right where I left off. He had me record two graduation tapes to submit to Suzuki sensei, Vivaldi Concerto in G minor and La Folia, which to our surprise, Suzuki sensei chose as an outstanding performance.
Suzuki sensei was right when he told my mom that Suzuki children would excel in their schoolwork. While my sister pursued her musical career in Europe, my brother pursued a business career, and I pursued an academic one. Still, our music stayed with us, no matter where we went.
When I went to Toronto, Canada to get a Master’s degree, violin helped me survive the impact of depressing weather, racism, demanding work, and the struggle of being away from family in a place where I had no connections. Despite my loneliness and depression, I managed to audition for the university orchestra. It was a place where I could make friends from all over the world, away from the competitiveness of academics. Even when I was working on tight deadlines, I would still go to rehearsals to feel the joy of playing Brahms with everyone.
Since then, I have gone back and forth between Canada and Japan to work and study. I have always made sure to join a local community orchestra in every city I live. During my pregnancies, my Ph.D. studies, and even right before my Ph.D. defense, playing the violin with fellow music lovers never disappeared from my “to-do list.” We all have different jobs and come from different places, but we meet to make beautiful music together that is beyond our differences.
I’ve found that the words Suzuki sensei told my mother about raising good citizens have rung true to this day. But we can even go beyond his words and say that the method helps raise global citizens who are capable of transcending language and racial barriers. As I teach an “Introduction to Global Citizenship” course to undergraduate students here in Vancouver, I often wonder if we are overlooking the power of music education in solving our global problems. Suzuki sensei wanted to give the gift of music “for the happiness of all people” in the post-war devastation of Japan. This idea of music for hope and happiness is needed more than ever today, especially in North America where we must heal from the sociopolitical divide and the devastation of the pandemic.
Now, I am trying to give my daughters the same gift of music that my parents gave me. My 9-year-old daughter started her musical journey with the Suzuki Preparatory Class at the Vancouver Academy of Music when she was four years old and has since thrived. She has become a passionate chamber musician along with her commitment to junior orchestra. Through music, she is learning to be a good listener and a responsible community member, just like me and my siblings did. It is exciting to watch her learn to work with other musicians from diverse backgrounds, characters, and skill levels with patience and humor. The joy of playing music with her peers surpasses any frustration she may feel. Through music, she is developing one of the most crucial characteristics of a global citizen: respecting difference and working together to build something beautiful.
As a parent, it is easy to lose perspective and feed into the competitiveness of the field. I remind myself of the true goal of our everyday violin and piano practice by listening back to the recordings I sent Suzuki sensei so many years ago. I felt quite guilty that I did not listen to them as carefully as I could have as a child, but here I am, telling my daughter what he told me about my playing of Bach Concerto in A minor as she is preparing for the recording of the same piece––“I listened to your Bach with joy. After many years of hard work, you are now able to play this masterpiece. Congratulations!” It is truly a joy to pass on his wits and advice as I hear them coming alive through the music of the next generation.
Bio:
Growing up in a transnational Suzuki family in Japan and Australia, Dr. Mizuta has continued to play the violin along with her professional career as a sociolinguist.
She currently resides in Vancouver, Canada with her historian husband and two daughters, and a dog, reliving her mom's life as a Suzuki parent.