全国指導者研究会で(9月27日)

 0〜3歳児コース特別講師としてお世話になっている村尾忠廣先生が、この9月に国際音楽教育学会(ISME)から終身名誉会員の称号を授与されました。このニュースは、全国指導者研究会のプログラムにセッティングされた村尾先生のセッション「0〜3歳児コース村尾忠廣先生による講義『うたのほん』」の冒頭(写真)でもお知らせがあり、大きな拍手が寄せられたほどです。

 マンスリースズキ向けに、さっそく村尾先生から喜びのメッセージをいただきましたので、ここで紹介します。国際的な音楽教育の質の向上、地域の広がりに対して驚くほどの働きかけを、長年にわたり、熱心に、真摯にされてこられたことがよくわかります。
 


 

ISME (国際音楽教育学会)の終身名誉会員として
表彰を受けました。 

0〜3歳児コース特別講師 村尾忠廣

 
 私事で恐縮ですが、このたび、ISME(International Society for Music Education)から学会への長年の貢献が評価され、終身名誉会員(Honorary Life Member)として表彰を受けました。2024年9月配信のISME Newsletterには、そのことがトップニュースとして顔写真付きで報じられています。
 

ISMEワルシャワ大会(1980)における発表
––––スズキ・メソード入門教材のリズムシンタックス

 

終身名誉会員になられたことを知らせる
ISMEのニュースレター

 振り返ってみれば、私がISMEで初めて研究発表したのは、1980年に開催されたワルシャワ大会でした。その時の発表テーマが “Rhythmic Syntax of the Introductory Materials in the Suzuki Method” (スズキ・メソード入門教材のリズムシンタックスについて)です。

 当時、長女がスズキ・メソードでヴァイオリンのお稽古を始めたばかりの頃でした。お稽古は、「キラキラ星」の変奏「タカタカ タッタ」から始まるのです。リズムは長い音の方が短い音より強くなりますから、「タカタカタッタ」は拍節アクセントに逆行した「逆行トローキー」のパターンとなります。そのしっかり閉じた(closure)パターンが、変奏2、3となるにつれ、緩く繋がり、分割され、ついには粉々の16分音符になってパターンが完全に失せるのです。その失せた後に、本来最初に登場するはずの主題が4小節の「キラキラ星」のフレーズとなって現れるのです。こんな変奏曲って他にあるでしょうか。これは何か大変深い意味があるのではないか。そう考えていたのです。
 
 1960~70年当時、世界中の音楽学者、心理学者の注目を集めていたのはL. B. Meyerの音楽の認知分析理論でした。私もMeyer理論に夢中になっていましたから、この理論をもとに分析、解釈して論文としてまとめてみました。あろうことか、その原稿を会ったこともないペンシルヴァニア大学のMeyer先生に送ったのです。今思えばずいぶん大胆なことをしたと思います。しかし、先生からは、丁寧に間違いや、ご自身の解釈などを述べて返信してくださいました。ISMEワルシャワ大会での発表原稿はこうしてでき上がったものです。
 

ISMEリサーチセミナーでの発表と主催

 
 ISMEワルシャワ大会の後、1981年から82年には、ペンシルヴァニア大学の客員研究員としてMeyer先生から直接、認知音楽分析を教わることになります。その間、二人の娘は、アメリカのスズキ・メソードでヴァイオリンを習っていました。(スズキ・メソードとは思えないような教え方だったのですが…)
 
 帰国後は、ISMEワルシャワ大会での発表をさらに拡大させ、日本人がどのように3拍子に慣れ親しんでいったか、の研究に着手しました。「キラキラ星変奏曲」の「タカタカタッタ」と同様の発想で、3拍子についても「タタタンタン」という短い音から長い音に繋がる付加型のパターン、専門用語で言えば「弱閉鎖ダクティルWeakly Closed Dactyl」が受け入れやすかったのではないか、と考えたのです。
 
 唱歌の「港(空も港も夜は晴れて)」、「背くらべ」、「うみ」、「こいのぼり(屋根より高い)…」。取り上げたらキリがありません。この日本人の3拍子についての研究は、ISMEの世界大会ではなく、学術的に非常に厳しい「ISMEリサーチセミナー」(1984)で行ないました。心理学的な実験研究が主流のリサーチセミナーで、認知科学的な私の研究は異質だったのですが、幸い好意的に受け取られ、以来、ISME世界大会とリサーチセミナーは毎回欠かさず参加し、発表することになります。リサーチセミナーについて言えば、アジア地域からの参加者は私一人でしたから、発表原稿は優先的に受け入れられていたかもしれません。
 
 1992年には、私が主催となって名古屋でISMEリサーチセミナーを開催することになります。日本経済のバブルが残っていた時期ですから、国や企業からたくさんの助成金を得ることができました。ずいぶん贅沢なセミナーとなって感謝されたのですが、残念なことにアジアからの参会者が日本を除いて一人もいません。これではいけない。アジア・太平洋版のリサーチセミナーを開催してはどうか、セミナー開催中にずっとそう考えていました。
 

APSMER(Asia-Pacific Symposium for Music Education Research)の創設

 
 ISME名古屋リサーチセミナーにはオーストラリアからの参会者がいました。博士号を取得したばかりの若者、Gary McPhersonです。1994年のISME世界大会がアメリカ・フロリダ州のタンパで開催された時、Garyを見つけると、早速、「アジア・太平洋版のリサーチセミナーを開催したい」という私の計画を告げました。Garyは大賛成してくれたのですが、もう一人発起人が必要だ、と言います。タンパで誰か適当な人はいないか、探していると見つかりました。アメリカで博士号を取得し、韓国音楽教育学会の会長を務めていたHong-soo Leeです。3人は意気投合し、第1回アジア太平洋音楽教育研究シンポジウム(APSMER)をソウルで開催することにいたしました。当初は、第1回のAPSMERを名古屋で開催する予定でしたが、私がISMEリサーチコミッションの委員長(1998-2000)に選出され、南アフリカセミナーの開催に専念すべきということになりました。それで、急遽、ソウルに変更したのです。ソウル大会には、日本、韓国、香港、オーストラリアに加え、何と、カナダからの参加がありました。ISMEリサーチセミナーのコミッションメンバーRobert Walkerが大学院の学生5名と一緒に参加したのです。当初、私たちは、アメリカやカナダからの参加を考えていなかったのですが、Asia-Pacificなのですから、歓迎して受け入れることにいたしました。
 
 こうして始まったAPSMERですが、内容はISMEリサーチセミナーと同じように合宿形式にしました。しかも、異なった国からの参会者と部屋を共有する、という徹底ぶりです。参会者が何千人というISME世界大会と違って、APSMERは、文字通り個人レベルの国際交流を目的としていたと思います。
 

APSMER名古屋大会そしてISMEの財政危機に直面して

 
 第3回のAPSMERは、2001年に名古屋で開催されました。この時期、私は日本音楽教育学会の会長、さらにはISMEの理事としての役目も担っていました。ISMEの財政が逼迫し、会員数も急速に減少していた時期です。ISME理事として私が主張していたのは、「中国で世界大会を開催する」ということでした。そうすれば、「ISME会員が急増し、財政問題が解決に向かう」という提案です。そのために、APSMER名古屋大会では、北京中央音楽院の教授を招待しました。APSMER大会後には、私が直接北京中央音楽院を訪問し、ISME世界大会の開催をお願いしたわけです。開催案は受諾され、ISME理事会でも承認されたのですが、しかし、開催申告は理事会終了日になっても届きませんでした。申し訳なく、恥ずかしい限りでした。
 
 私の夢が実現するきっかけになったのは、第4回APSMER香港大会でXie Jiaxing(北京音楽院)に出会ったことに始まります。
 

2003年香港大会からバンコク大会、そしてISME世界大会の北京開催へ

 
 2003年の香港APSMER大会は、SARS(重症急性呼吸器症候群)というコロナが香港で流行していたため、参会者の少ない寂しい会議となりました。しかし、この会議に中国、北京音楽院のXie Jiaxingが参加していたのです。なぜか、一目で仲良しになり、私は北京音楽院や上海音楽院で集中講義をするようになります。もちろん、「ISME世界大会を北京で開催する」こともお願いしました。一方で、タイ、シンガポール、マレーシアなど東南アジアからの参加がないので、私が直接これらの国に出向き、有力者と会ってAPSMERのことを説明いたしました。この時、タイ、チュラロンコン大学のNarutt Sutachichiと、「アジアのわらべ唄の共同研究をしよう」ということになります。第5回APSMERシアトル大会では、韓国のわらべ唄研究の第1人者Young-youn Kimを交えて3人で共同発表をいたしました。
 
 第6回APSMER(2007)はタイのバンコク大学で開催されました。この時、当時のISME会長から、「ISME Regional Conferenceをアジア太平洋地域でも開催できないか」という相談があったのです。しかし、すでにAPSMERが地域に根付いています。そのため、ISME Asia-Pacific Regional ConferenceはAPSMERの読み替えにすることにしました。ただし、この場合、開催地持ち回りのシンポジウムでなく、学会としての組織にする必要があります。APSMERバンコク大会の時、委員長、理事、事務局などを決め、学会らしく組織を発足させました。APSMERでは、実質的に私が委員長のように取り仕切っていたのですが、正式には委員長ではありません。APSMERバンコク大会以後、事務局を設置し、理事、会長などの役員を決めたのです。初代委員長には私が就任することになりました。
 
 一方、ISME北京大会の方は、オリンピック開催優先ということで、政府から待ったがかかりました。そのため、遅れに遅れをとることになります。2010年にようやく実現いたしました。史上最大規模の大会です。ISME会員は、中国だけでなく、広くアジアの国々からも急増し、企業からの寄付、そのほか様々な援助で、財政もすっかり健全になりました。私が主張し、提案していたことが10年を経てやっと実現したことになります。
 

昨年(2023年)、APSMERソウル大会での講演

 
 APSMER・ISME Asia-Pacific Regional Conferenceは、タイのバンコク大会以後、マラッカ(マレーシア)、シンガポール、上海、台北・・と続き、昨年2023年は、第1回の開催地であるソウルで行なわれました。私は、もはや委員長でも理事でもなかったのですが、創設者ということで、特別に講演を依頼されました。講演の内容は、APSMERの30年を振り返って、というものです。単なる昔話のような講演でしたが、拍手喝采でした。講演後、いろいろな資料の問い合わせがきました。スズキ・メソード才能教育研究会の理事を務め、その後0〜3歳児コースの特別講師をしている、ということも書いて送りました。
 
 今になって気づいたのですが、それらの質問は、ISME終身名誉会員として推薦するための資料作りだったようです。2024年、ヘルシンキで開催されたISME総会で、推薦の提案が正式に決定され、9月のISME News Letterのトップニュースとして報じられました。正直、少々照れくさいのですが、80歳の傘寿を迎えてありがたいお祝いとなりました。45年前、ISMEワルシャワ大会で「スズキ・メソード入門教材のリズムシンタックス」について発表した時のことを今、静かに思い返しています。
 


 

村尾忠廣先生プロフィール 

 
1971年 東京藝術大学チェロ科、 同大学院音楽学専門課程修了。1982〜1983年ペンシルヴァニア大学交換研究員(音楽認知の分析)
専門:認知音楽学 音楽教育学
職歴と役職:
才能教育研究会理事(2014〜2017)、 0~3歳児コース特別講師(2018〜)、香港教育大学•愛知教育大学名誉教授、帝塚山大学現代生活学部教授・学部長(2009〜2018)、日本音楽教育学会 会長(2001〜2004)、ISME(国際音楽教育学会)理事(2000〜2004)、ISMEリサーチ委員会委員長(1998-〜2000)、日本音楽知覚認知学会副会長(1996〜2000)、APSMERアジア太平洋音楽教育学会委員長 (2006〜2009)

単著『調子外れを治す』(音楽之友社)、『唱歌・童謡・わらべ唄の伴奏和声』(帝塚山大学出版会)