鈴木鎮一先生の直筆譜『光田先生に捧ぐる 讃歌』
甲信地区チェロ科指導者 北沢加奈子
せっかくなので、鈴木鎮一記念館に寄贈することを、持ち主である徳田さんにお願いし、ご快諾いただきましたので、4月24日(日)にクラスのグループレッスンを兼ね、鈴木鎮一記念館にて寄贈式を行ないました。
翌日、市民タイムスの記事にも載せていただきましたので、併せてご覧ください。
徳田さんより、楽譜の詳しい経緯を伺いました。
鈴木鎮一先生の楽譜
徳田安孝
その際、古い書類の束から鈴木鎮一先生が作曲された小曲の楽譜が出てきました。その曲は光田健輔(みつだけんすけ)という世界的なハンセン病学者に贈られたものでした。光田健輔はレプロミン反応(光田反応)というツベルクリン反応に似たハンセン病の診断方法を確立された人で、今でも世界中の皮膚科の教科書に記載があるものと思います。おそらく光田先生が信州に講演会などでいらした際、信州医学会を代表して送られたものと推定します。
作詞は当時の信州大学の皮膚泌尿器科の教授と私の父の連名ですが、医学論文の著者の慣例からすると実際に書いたのは父です。表紙の題字は母の筆跡で、何十部か制作した冊子に駆り出されたことがうかがえます。どうして当時から極めて高名であった鈴木鎮一先生にこのようなことをしていただけたのか、思いを巡らせて見たいと思います。
私の祖父の安儀(やすよし)は鈴木鎮一先生と大変親しくさせていただいておりました。祖父は鈴木先生の教育理念に大変感銘を受けており、昭和18年に開校した松本私立中学の設立委員の一人だった祖父は、鈴木先生の理念の具現化を目指して開校準備を進めていました。それは、鈴木先生の「合理的な訓練と正しい指導で才能を伸ばし、高い能力を形成する」という理念を一般教育にも応用しよう、
というもので、講師陣を東大出で固めた意欲的な学校で、実際成果もある程度出していたようです。その際、鈴木先生から何らかのご意見を伺っていた可能性が高いものと思います。
またその頃、祖父は東京に住む文化人の信州への疎開のお手伝いをしていました。実際、当家には竹久夢二が逗留していた際に書いていただいた色紙が伝わっていますし、岸田国士のお嬢さんで、後に女優となられた岸田今日子さんは祖父が身元引受人をしていたそうです。鈴木鎮一先生についても信州への疎開に関して祖父がお手伝いした可能性が大いにあるそうです。逆にそのようなことがなければ、鈴木先生に作曲の依頼など恐れ多くてできなかったようにも思います。
祖父は鈴木先生を大変尊敬しておりましたので、今回の楽譜について当時のことに想像を巡らしますと、父が教授に良い顔をするため安請け合いをし、祖父が恐縮しながら鈴木先生にお願いした、ということが本当のところだと思います。
最後に本小文を書くに当たり、当時のお話をお聞かせくださった、正安寺前住職、旭道寛様に深謝いたします。
実際に私自身が、チェロで演奏してみての感想です。
癩病の権威の光田先生へ捧げた曲、讃歌ではありますが、どことなく暗い面持ちの、儚い命への哀歌、そして祈りの歌のような印象も受けました。癩病で苦しんでいらした方、亡くなられた方々への鈴木鎮一先生のお気持ちもあったのかな、と想像いたしました。