松本の研究生時代の思い出を語るシリーズです。
第2回はこの企画を推進されたアマンダ・シューベルト先生です。

 
 国際スズキ協会(ISA)のアレン・リーブCEOが公式Webサイトで、かつて松本の才能教育音楽学校で学ばれた海外からの留学生(研究生)たち50人に及ぶ方々の思い出を掲載し始めました。
 
 そこで、先月から毎回一人ずつ和訳で紹介することにし、第2回は、この企画を推進されたアメリカのヴァイオリン科指導者であり、ティーチャー・トレーナーのアマンダ・シューベルト先生の思い出を紹介します。
 
 こちらがISAのサイトでのアマンダ先生の記事です。
 →アマンダ先生の記事
 This article appears originally on the ISA website, and is reprinted with the permission of the ISA.


 

 アマンダ・シューベルトは、3歳から大学まで父レイシー・マクラリーにヴァイオリンを学び、オクラホマシティ大学でヴァイオリン演奏の学士号を取得。ウィスコンシン大学マディソン校でヴァイオリン演奏の修士号を取得し、ノーマン・パウルに師事、プロアルテ弦楽四重奏団で幅広く研鑽を積みました。鈴木鎮一氏に師事し、才能教育音楽学校(松本市)で指導資格を取得。ホノルル交響楽団に18シーズン在籍。ノースカロライナ州のブレバード音楽センター・サマー・ミュージック・フェスティバルのヴァイオリン講師を14年間務めました。現在、テキサス州中部でフリーランスとして幅広く活動する傍ら、テンプル交響楽団の首席セカンド・ヴァイオリン奏者、テンプル交響楽団弦楽四重奏団のヴィオラ奏者を務めています。その音楽研究と演奏活動は、ヨーロッパ、カナダ、メキシコ、日本、中国に及んでいます。ソリストとして、オクラホマ交響楽団、ニュー・リリック弦楽四重奏団、メキシコのハラパ州立管弦楽団、テンプル交響楽団と共演。40年以上にわたり、あらゆる年齢の生徒たちにヴァイオリンを教えています。スズキ・ティーチャー・トレーナーであり、スズキ・アカデミー・オブ・ウェーコの創設者兼ディレクターでもあります。トランペット奏者である夫のマークとテキサス州中部に在住。二人の娘、オーガスタとアランナは母親のもとで育ち、ともにヴァイオリニストを志しています。


日本での名前 アマンダ・マクラリー
日本以外のその他の居住地:(幼少時に日本に滞在して以来): カンザス州エンポリア、オクラホマ州ノーマン、オクラホマ州オクラホマシティ、研究生として日本に滞在)、ハワイ州ホノルル、テキサス州ウェーコ。
日本で学んだ楽器 ヴァイオリン
来日歴 1971年夏(幼少期)、1990-1992年(研究生時代)
日本以外で鈴木先生に師事した年と場所:1978年サンフランシスコ、1979年ミュンヘン(ドイツ)

 

思い出

松本への道: 人生の様々な段階における鈴木先生との個人的な経験

アマンダ・シューベルト

 
1歳:1966年、私の父レイシー・マクラリーがカンザス州立エンポリア師範大学で開いていたスズキ・プログラムのワークショップのために、鈴木鎮一先生がエンポリアを訪れたとき、私も会っていると思います。1歳だった私は覚えていませんが、興奮を感じ、その音楽を吸収し、彼の子どもたちへの愛を感じたのは確かです。スズキの哲学の本質は、人は環境によって形作られるという事実があるからです。そして彼は、私の両親や弟、父のもとで学ぶ子どもたちを持つ家族や大学の指導者たちとともに、その環境の作り出す非常に重要な存在でした。エンポリアの環境は、鈴木先生のアプローチに興奮し、熱狂し、没頭する内容だったのです
 
3歳:1968年、鈴木先生がエンポリアの父のスズキ・プログラムに1週間のワークショップをしに再び来られました。それは、私が父のレッスンを始める直前のことでした。鈴木先生が我が家のゴルフヴァリアントの後部座席に座り、私は助手席(シートベルト着用法施行前)に立ち、父が運転席に座っていたのを覚えています。私たちはドライブウェイに出かける準備をしていて、振り返って鈴木先生を見ると、前かがみになって、満面の笑みを私に向けてくださいました。その瞬間、この人はとても善良で親切な人だと感じました。その週、鈴木先生ご夫妻は我が家に滞在され、一階の書斎にお泊まりになりました。なぜこのことを記憶にとどめているのかと振り返ってみると、人は大切な印象を受けたことを記憶するからだと思います。ご夫妻が私たちの家に泊まってくれたという事実が、私に鈴木先生ファミリーの人柄の良さ、そしていかに温かな感情で私たちと接していたかを印象づけました。また、鈴木先生は一緒にいて話しやすく、考えを共有しやすかったことも印象深いことです。
 
 後年、その人気と多忙なスケジュールのために、鈴木先生とリラックスして話をしようと近づくことが難しくなったことも覚えています。鈴木先生の訪問でもうひとつ鮮明に覚えているのは、我が家で鈴木先生ご夫妻と生徒や保護者たちを招いてパーティーをしたときのことです。子どもたちは外で遊び、おもちゃのサーリー(註:自転車のブランド)を私たちは車道で漕ぎ回していました。前部座席と後部座席があった。鈴木先生も私たち子どもたちと一緒にサーリーに乗って、私たちと一緒に遊びました。鈴木先生は私たちに心から共感され、私たちの感じ方を尊重されたのです。だから当然、私たちは鈴木先生を心から尊敬していました。
 

6歳のアマンダと父(1971年、松本)

6 歳: 私が6歳のとき、両親は私と兄のロイスを連れて、日本へ旅行しました。1971年の夏、私たちは松本で過ごし、父は鈴木先生の家庭環境を見学しました。6歳の子どもがそのような体験について何を覚えているのだろうと思う人がいるかもしれません。でも、鈴木先生がよくご存知のように、その年齢の子どもは非常に感受性が強いのです。その頃のことをあまり覚えていない人をたくさん知っていますが、私はよく覚えています。なぜこんなにはっきりと覚えているのかはわかりません。おそらく鈴木先生のアプローチによって記憶が発達したのだろうと思います。出来事、感情、景色、匂い、場所、そして私に大きな影響を与えた人々をよく覚えています。6歳の私は、鈴木先生から学ぶために、この大旅行をしているのだと理解していましたし、今にして思えば、このために外国に行くこと自体が、日本文化を体験し、スズキの哲学に包まれた日本の子どもたちや大人たちと交流する、かけがえのないことだったのです。

 その夏、8歳のロイスはヴィブラートを習っていました。父が段階を踏んで教えていたのです。鈴木先生はこのヴィブラート・メソッドを学びたいと考え、研究生のために父を招き、そのアイデアを披露してもらいました。夏の間、ロイスがヴィブラートの練習を進めるにつれ、父と一緒に鈴木先生の指導者研究会でそのプロセスを実演されました。これは、鈴木先生が自分の指導の幅を広げるために、常に他の方からも学ぶことに熱心であったことを示す一例です。私はこのようなセッションを見学し、私たちは皆、この偉大な学びの体験の中に一緒にいるのだと理解したことを覚えているます。私たちは一種のチームで、互いに学び合い、分かち合っていたのです。
 
 ある日、鈴木先生は私の父に演奏を依頼されました。父はクライスラーの曲を弾きましたが、鈴木先生は父にレッスンはせず、ただ 「ああ、美しい音色だ 」と言われただけでした。鈴木先生にとって、音色は教える上で最も重要なことのひとつでした。私たちが松本に到着して間もなく、鈴木先生はロイスと私にそれぞれ4曲のソロ曲を用意し、先生の前で演奏するようにと言われました。その演奏がいつになるかはわかりませんでした。しばらくすると、鈴木先生から特別演奏会の時間だと告げられた。私たちはそれぞれ選んだ曲を、才能教育会館のホールで演奏しました。私の曲は第1巻からのものでしたが、演奏の途中で、鈴木先生が 「ビッグ・トーン!」と言われたのを覚えています。すぐに、大きな音で演奏しました。そうしないとどうなるか知りたくなかったからです。これはすべてカセットテープに収められているます。私は、音色が最も重要であり、演奏のほとんどすべての側面が音色に関係することを鈴木先生から学びました。
 
 別の機会には、ロイスと私は鈴木先生のために何曲か一緒に演奏しました。ロイスは8歳にして自信に満ちた、とてもしっかりしたプレイヤーで、私は、正しい奏法を知っている彼を尊敬していました。ゴセックの「ガヴォット」を弾いていたとき、私は曲のある部分について少し自信がありませんでした。だから、次に何があるのかを確かめようと、ロイスのほうを振り向いていました。そこで、鈴木先生は、ロイスが見えないように私たちを背中合わせで演奏させたのです。他の人に頼らず、自分の曲を本当に勉強した方がいいということを、その時、私は学びました。
 
 ロイスと私が日本の子どもたちとのグループレッスンに参加した時のことです。鈴木先生は、私たち一人ずつに指導曲集第2巻の曲のトリッキーなパッセージを弾かせました。鈴木先生は生徒の列をさっと見て回りながら、たとえミスがあっても、一人の生徒の演奏にこだわることはありません。私の演奏は完璧ではなかったので、先生が私のところで立ち止まり、叱られるのではないかと心配しました。しかし、彼は生徒の列をどんどん下っていった。鈴木先生から、先生は厳しくもあり、同時に明るく優しくもあるのだと学んだ。それを体験した子どもだった私は、恥ずかしかったり、本当に怖かったりしたわけではない。もっと上手に弾きたいと思っただけだった。
 
 鈴木先生は、ヴァイオリンのレッスン、デモンストレーション、演奏だけでなく、生活のあらゆる場面で、自分の哲学に忠実で、本物でした。会館の外の広場で、先生と一緒にコカ・コーラを楽しんだことを覚えています。先生は、ロイスや私と過ごす時間を楽しみながら、母や父とさまざまなアイデアについて話していました。また、私たちは鈴木先生との食事を楽しむなど、いつも私たちに会うのを喜んでくださいました。その夏のある日、私は初めて歯が抜けました。鈴木先生は、私の口の中に空いた新しい穴を見て、とても喜び、興奮していました。振り返ってみると、鈴木先生との経験から、人生とは全人格的なものであり、他者にどう接するかということなのだと実感しています。
 
13歳と14歳:家族でそれぞれサンフランシスコとミュンヘンで開催されたスズキの国際大会に行きました。鈴木先生はいつも国際大会に出席されていました。私たちは、スズキ・メソードについてレッスンをしたり、聴衆に話したりするのを見学し、どのレッスンでも、先生は音色に重点を置いていました。これらの大会では、人混みと多忙なスケジュールのために、鈴木先生に近づいて長く話をすることさえ難しかったのですが、それでも先生は、子どもたちにチョコレートを配ってくれました。相変わらず、鈴木先生には子どもたちを引きつけるオーラのようなものがあったのです。これらのイベントを振り返ると、私は鈴木先生が興奮と熱狂の雰囲気を作り出し、それが周囲に伝染していったことをあらためて思い起こすします。私たちは皆、そこにいて学ぶことが大好きでした。これこそ、私が生徒とその家族に望む雰囲気なのです。
 
25歳から27歳: 25歳の時、研究生として松本に行きました。その決断のきっかけはこうでした:
 中学1年生の時、兄と一緒に学校で発表会をしたのですが、それを聴いた数歳年下の女の子が「ヴァイオリンを教えてほしい」と言ってきたのです。私はとても興奮し、父に教え方を教えてくれるよう頼みました。父は、まず鈴木先生の著書『愛に生きる』を読むべきだと言いました。そして、教え方を徹底的に教えてくれました。それで13歳のときに教え始めて、教えることがとても好きになり、中学、高校、大学とヴァイオリンを教えました。学部と大学院でヴァイオリン演奏の学位を取得し、ホノルル交響楽団で1シーズン演奏した後、教えることが大好きになった私は、スズキの哲学に没頭するために松本に行きました。週7日、毎日鈴木先生に師事しました。毎週個人レッスンを受け、毎日グループレッスンを受け、毎週マンデイ・コンサートに出演しました。また、青木謙幸先生の聴音のクラス、髙橋利夫先生の音楽表現のクラス、秋山先生の習字のクラスもありました。先生方の優しさと献身的なご指導のおかげで、試験も締め切りもプレッシャーもなく、教科を吸収することができました。鈴木先生のレッスンも数え切れないほど見学したし、日本の他の多くの素晴らしい先生方のレッスンも見学しました。

全国指導者研究会(浜松)で演奏するアマンダ先生

松本では森ゆう子先生のレッスンを定期的に見学し、長野では傳田先生のレッスンを見学するために定期的に電車で通いました。大阪では中島美子先生を、東京では広瀬八朗先生を見学しました。浜松での全国指導者研究会ではソリストとして演奏し、東京の武道館での全国大会では1,000人ほどの生徒たちと共演しました。冬は銭湯が楽しくて、灯油ストーブで暖をとるようにしていた。つまり、鈴木哲学と日本文化にどっぷり浸かっていたのです。

鈴木先生を囲んで、アマンダ先生(右)と研究生の仲間たち

 前述のように、私は毎週個人レッスンを受けていました。個人レッスンというよりも、鈴木先生をはじめとする日本人の先生方がマスタークラスのレッスンをしてくれたのです。これは、私が父と一緒に学んだ方法でもあります。毎週のレッスンは、常に他の生徒とその親が同席していて、これは私が好んで教える方法でもあります。マスタークラスのレッスンにデメリットはありません。私のトレーニングクラスでは、マスタークラス・レッスンの長所を教えています。マスタークラス・レッスンは、私たちが受けられる鈴木先生の重要な指導要素だと思います。

 鈴木先生の講習会では、楽譜も譜面台も教則本もありませんでした。私たちはただ演奏し、互いの演奏を聴くだけ。すべて暗譜でした。鈴木先生は、「新しいアイデア 」を持ってグループレッスンに来られます。私たちは調性や小品を通して鈴木先生のアイデアに取り組みました。鈴木先生の教えの通り、私たちは互いを観察し、実行し、自分の出す音を聴きながら学びました。そしてもちろん、鈴木先生は私たちにテクニックや曲を何度も練習させました。また、他の日本人の先生方がこのように生徒と一緒に練習しているのを見るのも楽しい思い出です。私は、このような要素を指導の最前線に置いています。
 
 鈴木先生のもとで勉強している間、私は連日、それぞれの研究生たちの演奏を何度も聴いていましたから、彼らの演奏をよく知っていました。ある日、鈴木先生は私たちに聴音の実験をされました。同じヴァイオリンを使って、一人ずつ交代で同じパッセージを弾かせるのです。誰が弾いているかは見えません。聴くことだけが許されたこの実験をしたとき、誰が演奏しているのか毎回正確にわかりました。楽器が同じでも、それぞれの研ぎ澄まされた音色と表情が違っていたのです。これは、鈴木先生が言うところの「音色には魂が宿っている」という例でした。
 
 鈴木先生を拝見していると、技術的、音楽的な能力だけでなく、人間的な成長においても、私たち一人ひとりが何を必要としているのかを観察しているのが感じられました。あるレッスンで、私が自分の曲を弾き通したとき、鈴木先生は 「手首に原因がある 」とおっしゃいました。鈴木先生は、時折特別な練習法を教えてくれましたが、それだけではなく、私たちが普段の練習や反復練習の中で、見て聴いて、母国語のアプローチに従って解決策を発見することを信じていました。私は自分の右腕と練習との関係について考えました。右腕が自由になったのは、そのレッスンと直接関係があったのです。
 

アマンダ先生の習字の作品。
ピアノ科研究生のブルースと

 もうひとつの発見は、鈴木先生がなぜ私たちに習字の授業を受けさせたのかということでした。習字の授業の最初に、固形の墨汁を少量の水に溶かし、粘りが出るまで揉んで墨を作ります。それから筆を墨に浸し、先生がその日のレッスンのために書いてくれた字を真似て、白紙に大きな字を書きました。私の字が大きかったのは、私が初心者だったからです。日本人の研究生たちは小さな筆で繊細な字を書いていました。最初のうちは、私の字には墨がたまり、不器用な筆使いが多かったものです。でき上がった紙を一枚一枚先生のところに持っていくと、先生は私の作品を批評し、改善点を指導してくださいました。それで、私はまた習字に戻り、再挑戦しました。毎週毎週、私は習字に取り組みました。そのうちに、筆の運びは弓の運びとも関係しており、筆や弓を手に持ったときのバランス、そして手と腕の自由な動きが重要であることを発見しました。忍耐強く、墨の作り方や各レッスンの順番を体験し、先生の忍耐強さは、私に技術を上達させただけでなく、美しい日本の芸術様式に対する深い敬愛の念を植え付けました。習字が私の授業に組み込まれていたことに、心から感謝しています。

アマンダ先生の卒業リサイタルのあとで、鈴木先生と

 さらに個人的な経験ですが、勉強や練習に忙殺され、街中を自転車で走り回って英語を教えているうちに、もっと食べたくなったものです。鈴木先生は、一口一口をゆっくりと味わいながら、「おいしいね」とおっしゃいました。それだけです。鈴木先生は、私たちが必要とするものすべてを手本にしてくださいました。「自分を大切にしなさい」という彼の暗黙の提案が今も忘れられません。

 ここでの文章では、日本での私の経験を簡単に述べたに過ぎません。だから、これを読んでいる人は、ISAのウェブサイトにある松本才能教育音楽学校の卒業生とパイオニアたちの他の多くの体験談も読んでほしいと思います。また、鈴木夫人のことを抜きにして、これを締めくくることはできません。彼女は鈴木先生とスズキ・メソードを全面的に支援しました。彼女は『Nurtured by Love』として鈴木先生の「愛に生きる」を英訳し、成長するスズキ・ムーブメントのビジネス面にも気を配ってくださいました。鈴木夫人の助けを借りて、私の家族は1971年に日本を訪れました。遠距離電話を使って旅行の手配をしてくれたのです。その後、私は研究生として、鈴木夫人が鈴木先生とスズキ・ムーブメントを決して揺らぐことなく支援していることを知りました。彼女と鈴木先生は、私にとって永遠のガイドです。スズキ・メソードは、最初から現在に至るまで、私の人生全体に影響を与えました。この生涯の旅を支えてくださった鈴木先生に深く感謝しています。