1980年代

アンドレ・ナヴァラとの交流。
チェロ全国大会を毎年のように各地で開催

 

野村先生は、海外演奏旅行への付き添いも数多くこなされ
ました(写真は、1968年の第4回。後列左から2番め)


 1980年代は、81年に、チェロ科黎明期から才能教育運動に共鳴された関西地区チェロ科指導者の野村武二先生が、そして82年に、周囲の指導者の「おふくろさん」的存在として慕われた関東地区チェロ科指導者の斎藤花子先生が、相次いでご逝去され、悲しみのスタートとなりました。
 

亡くなられる4ヵ月ほど前の野村先生と睦枝夫人、長男の野村朋亨
さん(1981年レークビワでの全国指導者研究会にて)

 季刊誌59号には、野村先生の親友だった新井覚先生、そして大先輩として慕われた中島顕先生らの追悼文が掲載されました。中島顕先生の追悼文を少し紹介しましょう。

 「まだ、指導1年生の頃、先生のコンサートにお誘いを受けたことがあります。鈴木先生も講演なさるというので大阪まで出かけて行き、50名前後の子どもたちの素晴らしい演奏を聴かせていただきました。初めて“白鳥”やポッパーのガヴォットの合奏を聴きました。ヴァイオリンでは常識になっていることが、自分の中ではチェロでは常識ではなかったのです。ステージの10数名の子どもたちがポッパーのガヴォットを合わせるだけの演奏ではなく、自在にチェロを操り、見事に弾いてのけたのです。その細やかな弓使い、微妙な節回し、今でもはっきりと目に浮かびます。自分の教室はまだキラキラ星の生徒ばかり。いつになったらこんな合奏ができるようになるのかと……(中略)。
 野村先生は、生きることに本当に不器用な先生でした。チェロしかないような先生でした。そんな音楽に対する純粋さが、自分の身体を酷使された原因なのかもしれません。音楽をしている以外には、欲も野心もない先生でした。若くして佐藤先生を通してカザルスに傾倒され、才能教育にカザルスの孫弟子をたくさん育ててくださいました。(中略)先生はいつも口癖のように、教室を開設された当時のことを聞かせてくださいました。今でもまだそれほど一般的ではないチェロ、当時は小さい分数チェロですら手に入らない時代、3名の生徒からスタートされたと聞きました。多分想像できないくらいの苦労があったに違いありません。私たちより先輩の先生方はみんなそこに出発点を持っていらして、その上に今のチェロ科があることをけっして忘れてはならないと思うのです」
 

左から、久保田顕先生、斎藤花子先生、バーツラフ・アダミーラ
先生、中島顕先生、長瀬冬嵐先生、久保田純子先生、佐藤満先生、
杉山實先生(1978年全国指導者研究会・愛知県三ケ根にて)

  斎藤花子先生への追悼文は、季刊誌63号に掲載されました。佐藤満先生の追悼文を紹介します。

 「斎藤先生は我々チェロ科のおふくろさんでした。ほとんどの者は30前後の、何も気のつかぬ無骨な男どもばかり…。そんな中にあって、私たちにはきっと気づかぬような目立たぬところで、お一人気を配られ、私たちを支えてくださいました。誰かが何かの会で椅子や荷物を運ばなければならぬとき、あるいはまた合宿をするために誰かがまとめて夜遅くまで働かねばならぬ時、先生は必ずその人たちのご苦労が報われるようご配慮されました。また助手の人たちが研究会で経済的にきつい思いをされていた時、その方たちへも心を配られておりました。人間関係については、なおさらです。先生は潤滑油のように私たちの間で、やさしく、やわらかくまとめてくださったのです。よくご馳走を作ってくださいました。夏期学校や研究会などで皆で泊まると、たいてい先生は近くのスーパーに行かれて、さっさと実に要領よく買い物をされ、あっという間に職人顔負けの手料理を振る舞ってくださいました」
 

カザルスの胸像の前でナヴァラと
鈴木先生(1980年)

 そうした悲しいニュースの中にも、嬉しいできごともありました。フランスのチェリスト、アンドレ・ナヴァラとの交流です。1980年、そして82年の2度にわたる才能教育会館での公開レッスンで、的確な指導であるばかりでなく、誠実さとユーモアに溢れたレッスンは、受講生や聴講者に強い影響を与えました。82年の公開レッスンでは、チェロ科の生徒を始め、卒業生、そして指導者など9名が受講。一貫して、その姿勢も音色もやわらかく、自然で美しい姿に誰もが魅了されました。

カザルスの胸像の前でナヴァラとチェロ科指導者たち(1982年)

  
鈴木先生は、あまりにもナヴァラの右手の動きがスムーズであることに気がつかれ、

第30回全国大会にご来場されたナヴァラ。
当日生徒が演奏した「故郷」「浜辺の歌」
は、ナヴァラのレコードにあわせて練習
した成果でした。

「きっと右手の甲にコインを載せて演奏しても落ちないのではないか」とアイデアが閃かれたそうです。そして、自らヴァイオリンの奏法練習として、右手の甲にコインを載せて演奏するための練習を重ねました。この練習法は、全国指導者研究会で、ヴァイオリンの指導者にも伝えられたのです。

 
1980年4月2日~3日 ピエール・フルニエやポール・トルトゥリエ、 モーリス・ジャンドロンらと並ぶ、フランスのチェロ楽派の偉大な伝統の継承者、アンドレ・ナヴァラが来日。才能教育会館(松本)で公開レッスンを行なった。
1980年5月1日 寺田義彦先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1980年9月28日 第6回チェロ全国大会を中野サンプラザ大ホールで開催。  
1981年3月1日 佐藤明先生が、指導者に認定され、関東地区に教室を開いた。
1981年9月27日 第7回チェロ全国大会を中野サンプラザ大ホールで開催。
1981年10月15日 関西地区で数多くの生徒を育てられた野村武二先生が、49歳の若さで急逝された。
1982年5月1日 宮田豊先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1982年10月2日~3日 アンドレ・ナヴァラが再来日。1980年に続いて2回目となる公開レッスンを才能教育会館で行なった。
1982年11月23日 第8回チェロ全国大会を神戸国際会議場メインホールで開催。
1982年12月15日 多くの生徒を育て、また指導者仲間にも慕われた関東地区チェロ科指導者、斎藤花子先生が、亡くなられた。58歳だった。
1983年1月1日 臼井洋治先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1983年5月1日 第9回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1983年5月1日 藍川政隆先生が、助教に認定され、関東地区に教室を開いた。
1984年3月27日 第30回全国大会(日本武道館)会場に、来日中のアンドレ・ナヴァラがご来場。
1984年9月30日 第10回チェロ全国大会を新宿文化センター大ホールで開催。
1984年9月30日 第10回チェロ全国大会を新宿文化センター大ホールで開催。
1985年3月1日 井上弘之先生が、指導者に認定され、北海道・東北地区に教室を開いた。
1985年8月 エドモントン(カナダ)でスズキ・メソード第7回世界大会開催。マスタークラスとコンサートに出演されていた堤 剛先生のお姿に、参加していた中島 顕先生は高い芸術性を感じた。のちに(1992年)、指導曲集の録音につながった。
1985年11月3日 第11回チェロ全国大会を松本市音楽文化ホールで開催。
1987年5月4日 第12回チェロ全国大会を京都会館第1ホールで開催。
1987年 第56回日本音楽コンクールチェロ部門で、中島顕先生クラス出身の山本裕康さんが1位に。
1988年4月1日 北沢加奈子先生が、指導者に認定され、甲信地区に教室を開いた。
1988年6月1日 森田健二先生が、指導者に認定され、関西地区に教室を開いた。
1988年6月12日 第13回チェロ全国大会を愛知厚生年金会館ホールで開催。
1989年5月3日 第14回チェロ全国大会を宇都宮市文化会館大ホールで開催。