オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第12回です。第6章「ワルトラウト夫人」の章の続きです。知られていないエピソードなどが随所にあり、興味深い内容が続きます。

 鈴木夫人は相変わらず、鈴木先生の教えるところを見に来ていました。
 
 結婚して数十年が経った後でも興味を失わなかったようです。ある日、夫人と私が一緒に座っていると突然低い声で口を隠しながら私に言いました。「あれは彼のヴァイオリンではないわね。彼のヴァイオリンはどこへ行ったのかしら」。「私もちょっとわかりませんね」と静かに返答し、ヴァイオリンを弾かれている鈴木先生の楽器に目を凝らして見てみました。「確かに先生のヴァイオリンではありませんね」と、私はささやきました。
 
 夫人は次第に我慢ができなくなり、大きな声で「あなたのヴァイオリンはどこへ行ったの」と問いただしました。すると鈴木先生は「あれは修理に出している」と 緊張した様子で答えました。「そうなのね。それならいいのよ」。夫人は声を荒げて返答しました。どうやら過去にヴァイオリンをどこかに置き忘れたことがあったそうです。私の娘が研究生だった頃に鈴木先生がストラディヴァリウス(※1)を貸してくださったことがありました。まぁそれが本物だったのかどうかはわかりませんが、とても美しい音色だったのは確かです。2年後に彼女が松本を去る前日にヴァイオリンを返却しました。娘がその12ヵ月後に松本に戻った時、鈴木先生は娘に会えて明らかに喜んでくれました。そして「わたしのヴァイオリンは?」と娘に聞きました。娘のキャシーは物凄く動揺しました。「お返しいたしましたが。先生のお部屋の棚の上に置いておくようにとおっしゃいましたよね」
 
 不思議なことにヴァイオリンは見つかりませんでした。というのも鈴木先生は数ヵ月前に宣教師のアマチュアヴァイオリニストにヴァイオリンを貸していたことをすっかり忘れていたのでした。
 
(※1)アントニオ・ストラディヴァリ(1644〜1737)、世界的に最も優れた弦楽器製作者として知られてれいる
 
 長い間日本で生活していても、ワルトラウト夫人の人生は困難続きでした。私がワルトラウト夫人と東京のホテルに行った時のことです。ホテルのフロントで鍵をお願いすると、そのフロントマンは顔を曇らせ、どこかに電話をかけ始めました。「外国のお客様が鈴木先生の部屋の鍵を渡すようにとおっしゃっているのですが」。ワルトラウト夫人が日本語で話しかけたこともすっかり忘れ、自分の言っていることを夫人も私もわからないであろうと思っていたようでした。「まったく馬鹿げているわ」夫人はイライラした様子で足取り荒く歩いて行きました。フロントマンには彼女が誰であるかを伝えておきました。彼はきっと恥ずかしい思いをしたことでしょう。
 
 店の従業員や受付の方、ウェイトレスの方などは私が話しかけるとパニックになることがよくありました。ある時、東京で歌舞伎のチケットを買いに行った時、販売員の男の方は席を立ち、どこかへ行ってしまいました。数分後に戻って来て、焦りを募らせたように「英語を話すスタッフがおりません」と日本語で私に言いました。「でも、私は日本語でチケットをお願いしたのですが」と日本語で返答しました。またレストランでは私が席に着くとウエイターが慌てふためいて「ただいまパンをきらしております」と、どもりながら言いました。けれど私がお米を食べることを知り、安心したようでした。私は彼にオーストラリアでもお米は育てていますし、そのお米は香港などに輸出していることを教えてあげました。
 
 鈴木夫人と私はアメリカ人の研究生が英語を教えていた小さい男の子の成果を見に行きました。その研究生の生徒は「ハンプティ・ダンプティ」の英語劇に出演することになっていました。私たちはその生徒さんのご両親の隣の席に座って劇が始まるのを待ちました。残念なことに練習不足だったようで、出演者の生徒たちが唯一覚えられた英語は ‘Oh! What a big egg!’ (まあ なんて大きな卵なのでしょう)のみでした。鈴木夫人は憤慨していました。夫人はその話を鈴木先生に伝えると、鈴木先生は頭を横に振って失望したようでした。
 
 歌手でもあったワルトラウト夫人と結婚していた鈴木先生は「ヴォーカリゼーション」と呼ばれる発声練習も含めたヴォーカルトレーニングの重要性に自然に気づき始めました。歌手にとってこの練習は声帯の振動をコントロールしたり声に広がりをもたせたりするものです。そこで鈴木先生はヴァイオリンの弦の振動をコントロールして、良いトーンの練習という意味の「トナリゼーション」という言葉を生み出しました。私が鈴木先生とお会いする機会があった限りでは、いつもレッスンの最初はヴァイオリン教本第2巻の最初のページに印刷してあるトナリゼーションの練習から始めていました。
 
 私がオーストラリアへ帰国してからある日、松本にいる鈴木夫人から電話がありました。というのも私が新聞記者からインタビューを受けて、それがイギリスのテレグラフ紙の記事になったからでした。
 

 記者に、最初にスズキ・メソードの生徒と会った時のことを聞かれ、ニューヨークで初めでスズキ・メソードに出会った時、愚かながら西洋の子どもたちには向かないなと思ってしまったと答えたのです。その新聞記者は勝手に自分自身の解釈を私の言葉のように書いてしまったのです。それを私はゴミ並みのバカらしい記事だと一喝しました。ところが誰かがイギリスからその記事を夫人に送ったようで、夫人の立腹ぶりは相当なものでした。私は夫人に読んだすべての記事を信用しないようにお願いしました。「闘牛は悪だが新聞はもっと悪い」(※2)という禅の学者の言葉を思い出さずにはいられませんでした。

(※2)Zen and Zen Classics Vol.1. (R.H. Blyth) 写真の本
 

パタソン真理子訳 次号に続く)

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。