オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第22回です。第10章「会館にて」の続きで、研究生としての松本での様子、さらには鈴木先生のユニークなレッスンのエピソードなどが記されています。当時の写真も新たに送っていただきました。

第10章 会館にて(続き)〜

 

子どもの心

 
 指導者養成課程を卒業するときのことです。鈴木鎮一先生は、私の卒業リサイタルの最後の曲は、「J.S.バッハ の『無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調』にしなさい」と、仰いました。
 
 今の私はもはやその時ほど若くなく、私のエネルギーレベルが鈴木先生の選ばれたプログラムに匹敵するかどうか疑わしいです。しかもそのパルティータの最終楽章はおよそ14分かかり、それで終わるという考えはあまりわくわくするものではありませんでした。
 
 私は先生に話しました。スタミナ不足の考えは鈴木先生には通じませんでした。それを理解してもらうのにはしばらくの時間を要しました。
 
「座って弾いてもいいです」鈴木先生は、仰いました。
 
 鈴木先生はいつも実年齢の各桁の数字を足して、自分の年齢を計算しておられました。つまり、先生が73歳だったときは、7+3=10歳でした。
 
 子どもの心を持つなら、決して歳はとらない。
  
 正月の 子供に成て 見たき哉 (しょうがつの こどもになりて みたきかな)  小林一茶
 

レッスン

 
 鈴木先生は時折、研究生が自分の演奏を観ることができるようにビデオカメラで撮影をされました。技術的な面で何を変える必要があるのか、把握しやすくするためです。
 
 私の個人レッスンの技術的な練習に関していうと、例えば、「上げ弓で音を鳴らして、それから下げ弓で音を鳴らしてください。2番目の音は肘を下げて、それから肘で弓を運んで弾いてください。上げ弓は弓の下のほうから始めて。やってみてください。」というような指示から始められます。 
 
 私は弾いてみます。
  「違う!」
 もう一度やってみます。
 「違う!」
 もし、私は最終的に先生が何を考えておられるのかわからなかったとしたら、私はそう言うでしょう。先生が仰います。
 「昨日はよくできていました!月曜日のコンサートでバッハを演奏したでしょう!」
  あぁ、バカな私!あのところね!今わかった。
 もう一度やってみます。
 「そうです!」
先生はタバコへ戻られます。
 
 ただ演奏できるだけではだめなのです。指導者は、要求される結果を得るためにどの筋肉を使う必要があるのかを正確に知らなくてはなりません。私はしばしば、生徒がある曲の一節を上手に弾けたことを伝えてあげると、本人がそれを覚えていて家で再び弾けるように、彼ら彼女らが何を正しくやったのかを尋ねます。
 
 ある日、私は鈴木先生が望まれた結果を出すことができませんでした。
 「これをどうぞ」先生は、仰っしゃいました。
 「あなたの弓には悪い癖がついてしまった。私のものを使いなさい」
 
 鈴木先生はイギリス人のジェームズ・タブス(註 JamesTubbs1836~1921)が作った弓を私に手渡しました。
 
 それは本当に驚くべき弓で、まったく信じられない経験でした! その弓は完全な均衡がとれていました。私はちょうど私の側に腕を置くことができていると感じ、それは弓が自ら演奏し続けるような感覚でした。ランドルフィ(註 Carlo Ferdinando Landolphi1734~1787)作のイタリア製のヴァイオリンと一緒では、それは魔法のような組み合わせでした。
 
 鈴木先生は、美しくニスが塗装された18世紀のヴァイオリンの裏に小さな肩当てを付けておられました。
 
 私たちは通常A440のピッチで演奏します。そのA音(ピアノの鍵盤の真中のドのすぐ上にあるラ)を調律するとき、毎秒440の振動数で鼓膜を打つ音波/サイクルを生成します。振動数が速いほど、ピッチは高くなります。ときどき、鈴木先生は日によって違うピッチを使うことを決められていました。
 
「今日はA444で調弦します」と、先生は仰るかもしれません。
   それは音程の取り方をとても難しくさせ、自分の音をよーく聴かなければなりません。
 
 研究生は毎週グループレッスンを受けました。鈴木先生は子どもたちと同じように楽しくゲームなどをしてレッスンをされました。時には、算数の問題を答えながら、バッハの『ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調』を演奏しなければなりませんでした。日本の研究生は英語で、外国の研究生は日本語で答えるのです。しかも私たちは日本語の動詞「~ございます」などの敬語を使わなければなりませんでした。「259です」の丁寧な言い方は、「ニヒャクゴジュウキュウでございます」と言い、速いバッハの演奏をしながら、多くの言葉を喋るのです。
 
 あるいは、教室の前方に出て来て、弦上の「クライスラー・ハイウェイ」と名付けられた道の上でまっすぐな弓を描かなくてはなりませんでした。もし上手くいくと、チョコレートが貰えました。その競争が非常に激しくなったのは、それがお店では簡単に入手できない良質のチョコレートだったからです。鈴木先生流の英語で‘ Now you become chocolate.’ 「今あなたはチョコレートになります」と言われると、研究生たちは興奮したものです。
 

ロイスの生徒、ケイトはチョコレートがもらえました

 そうして先生はご自分でも同じ課題を試みられました。先生は歳をとられるにつれて、楽器を下げて演奏されるようになりましたが、弓を持たれる腕の感度と音はなお美しかったです。

 「私はチョコレートになるかね?」うまくいけば先生は、そう尋ねられました。
 「あっ、はい、間違いなく!」
 
 もちろん、鈴木先生はいつも弓を逆さまにして使うことも提唱しておられました。フロッグを上にして(通常は、フロッグを下にして弓元を持つ)、弓先を持ちながら練習することは、計り知れないほど貴重なものです。私たちは音を出す訓練の助けにするためにこの方法を使っています。そしてもし弓を逆さまに持っているとき、ある曲の一定の場所でバランスが崩れていると感じる場合、それは、逆さまではなく普通に持っているときにも、同じ場所でバランスが崩れていることを示しているのです。
 
 私たちの先生はいつも“upside down”「逆さま」という英語の単語を何とか覚えておられました。が、“right way up”「正しい方を上に」という英語の単語は覚えておいてもらうことができませんでした。
 「それでは」
 先生は、ためらわれました。
 「もう一方の側で」

訳者:フィッシャー洋子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。