オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第26回です。いよいよ第12章「晩年」に入ります。体の不自由な子どもたちにも大きな可能性を見出そうと尽力されたロイス先生の具体的な活動と、その時の鈴木先生の姿が描写されています。

第12章 晩年

 
 メルボルンで、私の生徒たちが赤い制服で、きらびやかな第三区軍楽隊とともにコンサートをしたことがあります。関係者一同にとって、これは素晴らしいPRとなりました。私はザイツの協奏曲と「二人のてき弾兵」を楽隊の伴奏に合わせてアレンジし、皆で「キラキラ星変奏曲」をたくさんの打楽器とともに演奏し、おまけにスペイン風リズムの変奏も加えました。私はその演奏を録音したものを鈴木先生のところへ持って行きました。
「打楽器が多すぎますね」先生は仰いました。
 
 私にはベトナム戦争孤児の生徒がいて、彼は両足にキャリパー(測径両脚器)をつけていました。彼を教え始めた時、私は彼に座って弾かせていたのですが、初めてのグループレッスンで他の生徒が立って演奏しているのを見て、彼は自分もそうすると決めました。腕に抱えているものを巧みに扱いながら、不安定な足でバランス良く立ったということは、彼にとって本当に偉大な達成でした。彼の写真がメルボルンの新聞に載ったので、私はそれを鈴木先生にお見せしに行ったのですが、先生は「その男の子の姿勢が良くない」と言われました。その時、奥様がご一緒でした。奥様は先生にこう仰いました。
「アハッ、スズキ!彼が普通に立てないのが分からないのですか?」
 
 鈴木先生にとって、ヴァイオリニストが完璧でないことに甘んじるのはあり得ないことでした。きっと先生はその男の子が抱える問題に気づかれなかったのでしょう。
 
 鈴木先生ご夫妻が王立ヴィクトリア州盲学校の私の生徒たちを訪問してくださった時のことです。鈴木先生は、ほとんど目が見えず、聴力も不自由で、学習困難を抱えた女の子と喜んで写真に写ってくださったのですが、彼女が演奏した後に弓の持ち方が良くないと注意されていました。
 「オー、スズキ!」奥様は叫ばれていました。
 
 私はその女の子に15年ほど後に会いました。彼女は視力を完全に失い、寄宿舎に住んでおり、保護された作業所で働いていました。彼女はさらに2、3回、私のところにレッスンに来たのですが、21歳の誕生日に家族からフルサイズのヴァイオリンをプレゼントしてもらったと話してくれました。彼女はそのヴァイオリンを、先生につくこともなく、夜、自分の部屋でずっと弾いてきたのです。彼女が暗闇の中で音楽を楽しんでいる様子を想像しながら、何を弾いていたのか聞いてみました。
 「鈴木先生のキラキラ星です」と彼女は答えました。
 私は思わず泣きそうになりました。
 

王立ヴィクトリア州盲学校で贈られた
陶器のヴァイオリンを手に

 盲学校の生徒の一人が、二つの糸巻きのついたヴァイオリンの形をした陶器を鈴木先生に贈りました。それは、有名な陶芸家であるその子のお父さんが作られたものでした。松本に戻れば、鈴木先生は世界中から送られて来る贈り物用に貯蔵庫をお持ちで、プレゼントされた時は贈り物を礼儀正しく受け取られても、あとでその貯蔵庫にずっとしまわれていました。しかし、その陶器のヴァイオリンは、名誉なことにいつまでも先生のレッスン室に飾られていました。

 鈴木先生は、日本人の盲目のピアノの生徒がベートーヴェンを演奏しているテープをくださいました。それは本当に素晴らしい演奏でした。
 
 1987年、私はメルボルンの生徒たちを、ベルリンでのスズキの世界大会に連れて行きました。目が不自由な子どもたちに教えることについて講義をして欲しいと頼まれていたのですが、そこから、ある計画が始まりました。私は目が見えない子どもたちを連れて行こうと決めたのですが、彼らをトイレに連れていくためには、目が見える子どもたちも必要だということに気づき始めました。
 
 結局、そのグループは室内合奏団となり、ベルリンを出てユトレヒトやロンドンでも演奏することになりました。
 

鈴木先生、メルボルンのピアノ教師ネハマ・パトキン、
ロイス(私)、ワルトラウト夫人

 ベルリンではいくつかコンサートをしました。そのうちの一つは、メルボルンのピアノ教師ネハマ・パトキンと彼女の生徒たちとの合同コンサートでした。さらに、鈴木先生は私の生徒たちにご自分の講義で演奏して欲しいとお尋ねになりました。彼らがテレマンを演奏している間、先生は涙ぐんでおられました。

   講義の後、目が不自由な私の生徒たちは、鈴木先生と写真を撮りました。彼らは13〜15歳くらいで、全員背が高く、175cmくらいありました。鈴木先生は小柄な方で多分152cmくらいだったので、生徒たちに囲まれると本当に小さく見えました。先生は私に手招きして、「見てごらん」と合図されました。近寄ると、先生はご自分の足元を指差されました。鈴木鎮一先生は爪先立ちをして、身体をしっかり伸ばして、できる限り背が高くなるようにしておられたのです。
 
  オーケストラのリーダーをしていた非常に聡明な15歳の男の子は、5歳の時に小児癌で両目の視力を失っています。
 
 ヴァイオリンのことをご存知の読者の方はお分かりになると思いますが、演奏者は普通顔を少し左に向けます。ゆえに、左の腕と楽器は左を向くことになり、右腕が自由に弓を操れるようにします。演奏者の腕が長ければ長いほど、弓を動かす腕にもっとスペースが必要になります。その場合、左腕はもっと外側に向けなければなりません。
 

メルボルンで視覚障害の生徒と

 しかしながら、目が不自由な人は、自分の顔を左に向けることに慣れていません。顔をどちらかの方向に向けるのは、通常何かを見るためです。なので、私はそのリーダーの男の子に顔を左に向けるよう指導したことはなく、彼はどんどん大きくなり腕も非常に長くなりました。そのため彼の弾き方は窮屈な感がするのですが、演奏はとても素晴らしく、彼はベルリンの大会でソロ奏者として演奏しました。

 鈴木先生は彼の演奏にとても感心しておられました。
 「あなたはすぐにチャイコフスキーの‘コンツェルト’を弾くようになるね」と先生はおっしゃいました。(先生はいつも協奏曲という時にドイツ語をお使いになりました)
 
 私が目の不自由な子どもたちを教えることについて講義をした時、二人の生徒が再びそこでソロを演奏しました。私はこの生徒たちに関する療法士の評価報告書を持っていますが、それによると、一人の男の子は完全に盲目で、自閉症でもあります。報告書によると、彼はまったく方向感覚がなく、何かを一度手から離すと再び手に取れないとあります。彼は歯磨き粉を歯ブラシにつけることもできないと記述しています。それでも、その男の子は、弓をさっと持ち上げて再び正確に弦の上に戻して流れるように和音を弾き続けなければならないコレッリの「ラ・フォリア」を演奏できるのです。
 
 どの子も育つ

 
訳者:パタソン真理子

ロイス・シェパード先生の略歴

 

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 オーストラリアのヴァイオリンとヴィオラの指導者であり、スズキのティーチャートレーナー。スズキ・メソードをヴィクトリア州に紹介し、スズキの協会(現在のスズキ・ミュージック)を設立。
 ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
 1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
 ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
 ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。