オーストラリア在住のヴァイオリン・ヴィオラ科指導者、ロイス・シェパード先生のご著書「鈴木鎮一先生の思い出」日本語訳の連載第20回です。第10章「会館にて」の続きで、内容的にはロイス先生が日本のあちこちで見聞された、いろいろなエピソードが紹介されています。お楽しみください!
第10章 会館にて(続き)〜日本のあちこちで
私は東京でのグランドコンサートのための調弦チームとして唯一の外国人のようでした。調弦しなければならないヴァイオリンはおよそ3,000本もあり、私の目の前には待っている子どもたちの列が長々と一直線に後ろにのびていました。私の前に並んでいた列は、シューマンの『二人のてき弾兵』を演奏する子どもたちの一群でした。私はそれぞれの子どものヴァイオリンを調弦した後、はっと気づきました。ある子どもが日本人の誰かに“ちゃんと”調弦してもらおうとして違う列に並びに行こうしていたのです。
演奏中、私は観客の様子を観て回ることにしました。日本人の親御さん方が演奏を聴いているときの反応は興味深いものでした。ホールの上層階で、突然、警備員の列に出くわしました。どうみても明らかに外国人である私は、皇室の方々が座っておられた近辺をさまよっていたのです。
いつものように、鈴木鎮一先生は、コンサートの最後の曲でピアノ伴奏をされました。このようなコンサートでは最後はいつも『キラキラ星変奏曲』でした。時々、鈴木先生は、キラキラ星の“ニューバリエーション”を加えられました。新しいといっても、それは概ね同じものでした。
ある日、東京の公園で武装した警備員に出くわしたことがあります。私がいた場所は皇居に近すぎたのです。私は何が問題なのか理解するのにしばらく時間を要しました。天皇について話されるときは、特別な語彙を使われるので、その警備員は私が今まで聞いたことがないような言葉で私の失態を説明したのです。(第二次世界大戦の終戦では、天皇陛下は一般の人々がほとんど理解できない公式な古式ゆかしいお言葉で玉音放送を行われました)
京都の郊外に位置する、とある山を歩いていると、山頂近くでお寺に遭遇しました。近づくと、一人の僧侶が現れ、お茶を飲んでいかないかと言われました。僧はお茶とみかんを出してくださいました。(正しいみかんの食べ方は、その皮が一枚となるよう丁寧に一皮でむき、食べ終えた後は、中身があるかのように皮の形をもとに戻しておくのです)
私たちは林の中のコキジバトの鳴き声の中、静かに座っていました。その後、僧侶は私の幸せを願ってくださり、私は山を下り始めました。間もなくすると霧が出てきたので、道路の端しか見えないほど視界が悪くなりました。コキジバトの鳴き声はやみ、私の足音は完全に霧で覆われました。白い静寂の中を歩いていると、霧の中から1匹の猿が現れました。猿は私の前に立ちはだかりました。私はポケットに入っていたピーナッツを少しあげてみました。すると森から、静かで穏やかな他の仲間たちがやってきて、私のそばを歩きながら礼儀正しく私のピーナッツを取っていくのです。さらに山を下ると、霧が散り始め、動物たちは木々の中に溶け込んでいきました。猿たちは、人間とりわけその山の上の僧侶に慣れていたことに気づきました。
後日、私は猿島のガイド付きツアーへ行ってみました。そこの猿たちは凶暴なので、私たちは彼らのそばに手をやったりしないように警告されました。ガイドは私たちを両側にある背の高いワイヤーフェンスに沿って案内しました。ワイヤーの後ろのケージに入れられた猿たちは、ガイドがスティックで彼らを指している間、唸り声をあげ、叫び、歯をむき出しにしていました。その猿たちは、数週間前に私が山で見た猿と同じ種類でした。
それは、「猿は環境の子なり」と、言うことです。
私は喫茶店に入り、席に着きました。私のテーブルの隣には、大きなケージがあり、白い羽と黄色のとさかを持つまさにオーストラリアのコッカトゥ(オカメインコ)と思われるようなオウムがいました。
コーヒーを待っている間、私たちはお互いを見つめ合ったあと、その鳥は止まり木に沿って私ににじり寄り、私を眺めていました。
「ハロ~ コッキ~」私は語りかけてみました。
彼は私をみて、頭を左右に動かしたあと、できるだけ私の近くに動いてきました。
「オハヨウ」と、彼は小さなコッカトゥの声で言いました。
(コッキーは環境の子なり)
訳者:フィッシャー洋子
ロイス・シェパード先生の略歴
ニューサウスウェールズ音楽院及び松本市の才能教育音楽学校を卒業。シドニー交響楽団のメンバーを務める。また、ニューサウスウェールズやヴィクトリアの数々の学校で教鞭をとる。長年、オーストラリア音楽検定委員会の試験官、ヴィクトリア州立大学の幼児教育の学会で講師を務める傍ら、メルボルン大学の音楽院でヴァイオリンとヴィオラを教える。一時期、アメリカの西イリノイ大学のヴィオラ科教授兼スズキ・プログラムの理事を務める。
1960年代前半より、スズキ・メソードでの指導と研究を続けてきた。
ロイス先生は、プロの演奏家を育てることを目的とはしなかったが、その生徒の多くが、シンフォニーオーケストラのメンバーや室内楽奏者、また、スズキの指導者になっている。これまでの生徒は、メルボルン大学、ボストンのニューイングランド音楽院、ニューヨークのジュリアード音楽院、南イリノイ大学、ミシガン大学、ロンドンの王立音楽院などの高等教育機関への奨学金を得ている。また、多数の生徒がメルボルンの私立学校の音楽部門の奨学金を得ている。メルボルンの生徒への指導並びに指導者への指導を続けて、現在に至る。
ロイス先生の長男は現在、IT企業で活躍中。長女は松本で鈴木鎮一先生の下で研鑽を積み、現在、ドイツでヴァイオリンとヴァイオリンの指導法を教えている。2人の孫がいる。